階段 どれくらい上ったか。あとどのくらい上るのか。
シャムロックは薄暗い石段を踏みしめながら、そんなことは最早どうでもよくなってきていた。
とりあえずは、このままのぼっていれば屋上にでるのだ。それさえ確かならば他はいい。
今は何も考えず、ただ足を次の段にあげることに専念しようと、シャムロックは思った。
頭が空になり、言葉の欠片も消えてしまった頃。
突如、かんかんかん、という威勢のいい足音が響いてきた。下からだ。
見ると、ひとりの少年が一足飛びに階段を上ってきている。年の頃は14・5ぐらいであろうか。シャムロックには目もくれず駆けのぼる彼は、時折下を振り向いては、悪戯っぽい笑顔を満面に浮かべていた。
あっという間に自分を追い越した背中をしばし見送ってから、何となしに再び下を振り返る。そこには、肩で息をしたもうひとりの少年がいた。先程の彼よりは少し小柄で、幼い。
先に行ってしまった友人を追っているのだろうか。小柄な少年は困り果てた表情を階段の先に向けながら、それでも足は決してとめずに律儀に一段ずつ、ひたすら駆けのぼっている。走るというよりは跳ねているようだ。
少年はそのまま跳ねながら、シャムロックの横を通り過ぎると、時折よろめきつつも上へと消えていった。
シャムロックは、ふたりの少年の行方を目で追いながら、頬を緩めた。石段を踏みしめる足に、知らず力が込められた。
光の溢れる四角い出口を抜けると、唐突に視界が広がった。天井のない、空の青さに目がくらむ。地平に足をかけたまま止まっている大きな白い雲が、随分と近くに見えた。
思わずその場に立ちつくしていたシャムロックは、視界の隅に少年たちの姿を見とめて我に返った。
少年達は屋上を柵のように縁どる、でこぼこと交互に突きでた胸壁の側で、何やらじゃれあっている。
大人の肩ほどの高さの突きでた壁の上に、いかにも悪戯小僧な少年が座っており、それをもう片方の小柄な少年が袖をつかんで降ろそうとしているらしい。
あぶないから降りて。大丈夫だって、お前も来いよ。
離れていて声は届かないが、そんなやりとりが聞こえてくるようだ。
シャムロックは微笑み、自分も彼らの側に歩み寄った。仲良く騒ぐふたりを横目に、壁に手を置き、眼下にひろがる風景をながめる。今日は風がないせいか、それは巨大な一枚の絵画のように静かだった。
―――殺風景な景色だ。何度見ても。
形も並びも愛想のない、白い石畳、白い建物。
実用性の追求を体中で主張するこの街には、華やかさの欠片もなかった。
頑なで容赦がなくて、無骨な街。こうして高い所から見て楽しむところなど、ひとつもありはしない。
だがシャムロックは、この眺めが好きだった。
むかし、この街を訪れたある旅人が、今のシャムロックと同じ場所に立って、「白亜の都市だ」と称えたという。
その話を伝え聞いた時、シャムロックは嬉しかった。
他の人も自分と同じように思ってくれていたのだ―――白くて綺麗、そう見えていたのだ。
そのことが嬉しくて、たまらなかった。
(―――でも、私の横でその話を聞いていた仲間は「褒めるのに余程苦労したんだろうな」なんて苦笑していたっけ。他の仲間は、「何が『はくあ』だ、なよなよしい言い方しやがって」と大笑いしていたな……)
シャムロックは懐かしい思い出に笑おうとして、代わりに身震いした。急に寒いと感じた。
手を口にあて、息を吐く。腕をさすりながら、シャムロックは隣の少年たちを見やった。
彼らは無言で、風景を眺めている。思春期の真摯さで。食い入るように、何かの儀式であるかのように。
(何を見ているのだろう。空に浮かぶこの街の写し、動かない白い雲か。それとも、道に慎ましく植えられた街路樹?)
友人を城壁から降ろすことを諦めた小柄な少年は、拳をにぎって真っ直ぐ前を見つめていたが、シャムロックの視線を感じたのか、ふとこちらを向いた。
目が合った。途端少年は慌てたようにうつむく。おや、と眉を上げたシャムロックの前で、少年は頭のてっぺんを向けたまましばし躊躇っていたが、やがておずおずと目線をあげた。
前髪の間からのぞく瞳に、シャムロックは安心させるように口元を緩めてみせた。そして一言、好きなんだな、と問うた。
少年は突然の問いに戸惑いながらも、はにかんで小さく頷いた。
シャムロックは微笑む。そして重ねて訊いた。
―――これは、お前たちのものだよな。この風景を見ることのできるのは、階段をのぼってきたお前たちや、彼らだけだよな……。
いよいよ少年は困惑して、城壁の上の友人を見あげたが、彼がこちらに気づきもしないのを知ると、困った顔で向きなおり、わからない、というように首をかしげた。
「ひどいもんですな」
背後から声がかけられた。シャムロックは顔を引き締め、後ろを振り返る。そこには中年の男がひとりいた。
「そこかしこに血痕や爪跡が残っていて……おっと」
男は不器用に、足元に転がっていた石の塊をよけた。
肩越しの視線に気づくと男は照れたように笑い、シャムロックの一歩後ろに立った。上司への敬意というよりは、抉れた傷をもつ城壁に近寄りたくなかっただけなのだろう。
シャムロックは前に向きなおり、云った。
「ここから見た限りでも、大部分の建物が崩れているな」
「東の通りの近辺が特に被害が大きいようで」
「瓦礫の撤去、倒壊しそうな建築物の解体。まずはそこからだ。この城も、」
言葉を切り、手の甲で城壁を撫でる。
「―――壊さねばなるまい」
「ええ、そうですね。……費用と期間の方はこちらで算出しておきます。具体的な数字は派閥の返答待ちになりますが」
なるべく多くの召喚師と資金を提供してもらわないと、と続けられる言葉に、シャムロックは無意識に瞼を伏せた。ざらついた石壁にのせた右手が見える。指の先に広がる景色は陽を反射して眩しく、目を焼いた。
報告を耳に入れながら、何故この男の声はこんなにも弾んでいるのだろうか、と頭の隅で考える。街を一から作り直すなどという機会は滅多にないからなのだろうか。理想の都市を組み立てる作業は官吏にとって、いや少なくとも後ろのこの男にとっては素晴らしいことであるらしい。―――無論それがおかしいことであるとか、咎めるべきことなどと云うつもりはないが。
男は手に持った報告書やらをめくりながらふと語尾を濁らせた。
「一応、損傷のない建物もありはします、が……」
「いや、全て壊そう」
シャムロックは城壁から手を離し、背を向けた。
息をひそめていたふたつの、いや幾万の熱のない視線が自分に向けられるのを感じる。
「あのような悲劇のあった場所だからな。新しく生まれ変わる街に、穢れを残してはならない」
監督者から当然の、予定していた通りの言葉を引きだしたためか、男は満足そうに頷いた。
シャムロックは纏わる視線はそのままに、前を力強く見据えた。背に負うのは真っ白に沈む、無言の街並み。
「全てを新しくしよう。ここを訪れた人間の誰もが美しいと口を揃えるような、住人たちが常に笑っていられるような、そんな都市にしよう」
シャムロックは、目に強さを宿したままつぶやいた。
「この街の昔を、誰もが忘れてしまうように……」
肩の横にあるふたつの気配がゆれるのを感じた。シャムロックは唇をかむ。
―――はずされた階段の先にある風景。白い影の群れ。
置いていかれる子ら。
すべては決して読まれることのない、ひとつの御伽噺になるのだ。