荒野 黄色く濁った風の中を、ラムダは歩いていた。
わずらわしげに目を細め、顔にぶつかってくる砂塵をやり過ごす。あたりを覆いつくす点の流れに逆らい、ただ進む。進む。
風が散った。
前触れなく晴れた視界の中にあるのは、先程からみじんも変わりない風景だった。ひび割れた黄土色の大地、わざとらしいぐらい青い空。
ラムダは、少しも楽しそうではなく、かといって辟易としたため息も漏らすことなく、黙々と歩みをつづけていた。
サイジェントの街の外にひろがる荒野。
何も生みださず、見るものの心を癒すこともない。目につくものといえば時折砂煙をあげながらはしっている獣ぐらいだが、その獣自体すくない。ここは、不毛の土地だった。
このような場所を好んで歩く人間はそうはいない。だが、ラムダはその少ない物好きのひとりだった。
何故ここを訪れるのか。
自分の心をひきつける何が、ここにあるのか。
ラムダはさめた視線を目の前の景色に向けながら、さして興味がある風でもなく考えた。
また風が吹く。
今度は後ろから、髪をわけて後頭部の地肌に、ざらついた砂をふきつけてくる。ラムダは歩みをとめない。
地面のひびの間からわずかに生えた草が力なく弄られている。ラムダが踏みしめたその草の横を、小石が跳ねながら転がっていった。
何となしに石を見やったラムダは、風の音に低いうなりが混じっているのに気づいた。ふりむくと、3メートル程はなれた場所に、土と同じ色の小さな生き物が歯をむきだしてラムダを睨みつけている。それは丸く赤黒い目を見開き、長い耳と尾を逆立てていた。
ラムダは足をとめ、獣に向きなおった。目に威圧をこめて見おろす。
睨みあって数拍。
風がやんで、向き合うふたつの影が残された。
低いうなり声がとぎれ、次の瞬間獣は地を蹴った。後ろ足が軌跡に沿って砂ぼこりをまきあげる。
ラムダは向かってくる獣に、おもむろに片足を叩きつけた。
次の瞬間それは消え、遠くにどさりと砂煙が起こった。風がひと吹き、その煙を掻く。
ラムダは鼻を鳴らし、何事もなかったかのように歩きはじめた。
しばしあるき、ラムダは再びふりむいた。
乾いた視界の中には、立ちあがって牙をむく獣。赤く濁った色の目にはただ、怒りがあった。
汚れた体毛を毛羽立たせ、威嚇の声を高らかにあげるその獣は、先よりも鈍い動きで駆けてきた。直線に、ラムダに向かって。
ラムダは剣をとった。ただし鞘ははずさず、こん棒のように握る。構え、鋭い目で間合いを測る。そして足に向かって跳ねた獣の鼻っ面を打った。手ごたえとともに響く、鈍い粉砕音。
悲鳴もなく飛ばされたそれは、転がり、全身に黄色い砂をまぶされてうつぶせに横たわった。
ラムダは今度は目をそらさなかった。鞘を握ったまま、倒れる敗者を見やる。
(―――死んだか)
わずかな動きも見逃さぬように凝視する。
いくつかの風をやりすごし、なお微動だにしない男の視界の中で、ふいに、長い耳の片方が持ち上がった。
今日この広い荒野の中ではじめての感情が、ラムダにはしった。
その感情を逃さぬとするかのように、慎重に手を伸ばし、剣の柄を握る。次に来るときには斬ろうとラムダは決めた。それこそが礼儀であると信じた。
首の後ろが熱い。ラムダは細く息を吐き、その熱を外に出さぬように呼吸した。相手の次を待つ。
息をひそめる男の目の前で直立し、風の中で旗のようであったその耳は、しかし徐々に芯を失ってずり落ちていった。何度か起こそうとしてぴくりと動くが重力に負けて立ちはせず、ついには完全に沈黙し、ひとつの石のようになった。
呼吸にあわせた収縮の動きを、ささやかに繰りかえすのみの体。その上を、土ぼこりが音もなく走っていく。
「……」
ラムダは剣から手をはずした。屈めていた体をゆっくりと起こす。
あげた顔に失望の色はない。ただ、あるのは純粋な敬意である。
敵を前にして気絶した獣。
だが、まだ死んではいない。
心の臓も、そこに満ちる気概も。
ラムダは伏した獣を後にし、歩みはじめた。
甲冑を鳴らし、大地を一歩一歩確かな足取りで踏みしめていく。
頬に張りついた砂を片手で拭いながら、ラムダは考えた。
―――生きて、いけるではないか。こんな荒れ果てた土地でさえ。
或いは自分がここを訪れるのは、それを確認する為なのかもしれない。
ラムダは何の感情もうかがえぬ目で眺めていた手のひらの砂を、風の中に捨てた。