シャム双生児 うるさいほどの虫の声が、少しやんだ。
すぐあとに、草を踏む音と荒い息づかいがやってくる。
夜の空気に似合わない、あわただしい響き。乱れた拍子をとりながらも、決してとまらず、来たときと同じ速さで通り抜けていく。
騒音が遠くへ消え去り、聞こえなくなるのを確かめると、虫たちはどこからともなく合唱を再開した。
月が見下ろす草原を、いま、ふたつの影がひた走っていた。
影のひとつがふいに、草むらに転がった。それと同時にもう片方の影も膝をがくりと落として倒れこむ。
そのままふたつは動かず、うつぶせながら、せわしない呼吸だけをしばし繰り返した。
「もう、ここまで、くれば」
ひとりがのろのろと起き上がった。
「っかんねえ、もっと、もっと前に」
もうひとりも起き上がる。
月明かりが、肩を上下させながら向かい合って座るふたりの少年を照らした。同じ顔だった。
だがよく目を凝らせば、髪の色が微妙に違うことに気づく。片方は赤、もう片方は青。
その色彩は、とりもなおさずそれぞれがまとう空気の色だった。
赤い方の少年―――リューグは、おさまってきた呼吸の合間から、激しい感情が沸きあがりつつあるのを自覚していた。
快哉だった。腹の底からマグマのように噴きだそうとするそれを、歯を食いしばって耐えていたが、とうとう押さえきれずに口を開いた。
「殺した」
リューグが叫ぶ前に、言おうと思っていた言葉を青い方がつぶやいた。
「ああ、殺した」
興奮気味に、リューグは言った。「殺してやった」
青い方はリューグと同じ顔を苦しげに歪め、手で自分の腕を押さえた。
リューグはそんな青い少年に、自分の手のひらを伸べてなおも言う。
「靴屋のじじいをやった奴だった。俺はこの手で斬った。この斧だ」
青い方は、しかし力なく頭を振るだけだった。
リューグの中で、高揚がまたたく間に苛立ちに変わる。それは炎のように、身のうちを焼いた。
「仇だ」
怒鳴った。青い方はリューグの方を見ずに、もう一度つぶやいた。
「殺した」
震えていた。リューグは、舌打ちをする。
(まただ)
どうしてこいつは、いつもこうなんだろう。
「腑抜け野郎」
血のように吐き捨てた。鬼の形相で、少年をにらみつける。
草むらに視線を落とす青い少年の、頭のてっぺんに視線を突き刺しながら、リューグは自分のなかにごぼごぼと言葉が浮かんでくるのを感じていた。
―――俺は決して、こいつのようにはならない。
それはリューグが、そしてもう一人の少年が、幼い頃から胸に誓っていたことだった。
ふいにふたりが表情を消して、互いを見つめ合う。
青い月の光のもとで浮かび上がる、それは一対の鏡像であった。
*
リューグはふと、窓を眺めた。
沈みかけた太陽が、街の向こうからまばゆい光をはなっている。その光は四角い窓枠からあふれだし、部屋いっぱいを満たしていた。まがまがしいほどの赤い色だった。
リューグは荷をつめる手をとめ、その場にしゃがんだまま、しばらく何も考えずにぼうっとした。眼球の裏まで焼いてしまいそうな激しい色を、ただ眺めつづけた。
照らされる顔や腕が、温かい。生き物を目覚めさせる白い光とちがって、夕日の光は高ぶった心に幕を下ろそうとしてくる。リューグはあと3分もこのぬくもりの中にいたら、動けなくなってしまいそうだと思った。
―――疲れていた。
体だけではなく、心が。
あまりにめまぐるしすぎたのだ。
故郷を焼かれ、走って逃げのび、あたらしい仲間に出会い。そして彼らと別れて、仮の住まいを今こうして出て行こうとしている。息をつく間もない数日間だった。
(まだ数日かよ……)
心で毒づいた。
もっと長かった気もしていた。だがそれは、自分がこんな短期間ですべてを失ったなどと、認めなくなかったからなのかもしれない。
古い住みか、畑、友人。退屈で平穏な日々。……そして共に過ごしてきた家族を失う。これから失うところだ。ついさっき大喧嘩をし、自分は彼らとは別の道を歩んでいくと、決めたばかりなのである。
馬鹿らしい、と思った。いつか抜け出そうと心に決めていた村の生活や鬱陶しいしがらみは、こんなにもあっけなく崩れた。そのことにリューグは呆れ果て、またどうしようもなく怒りを感じていた。
ため息をついて、荷をつめる作業を再開する。
赤い窓の裏から、甲高い無邪気なはしゃぎ声が聞こえてきた。ばたばたと、騒がしい足音も聞こえる。
(俺の村が焼かれたってのに、ここの子供たちは笑うんだな)
手を動かしながら、自然にそんな言葉が浮かんだ。
世界は何も変わらない。故郷が消えて、住む人々が死んだとしても。自分が人を殺しても。
それはとても、気持ちの悪いことのように、リューグには思えた。
(もしもあの時あいつが震えていなけりゃ、俺が代わりに震えていたんだろうか)
ふたたび心に、意図しない言葉が浮かんだ。脈略も根拠もない、文字の羅列。
リューグは頭をふって、つめ終わった荷の口をしばった。持ち上げて肩にかける。馬鹿なことを、と顔をしかめた。気が緩んでいると、ろくなことが思い浮かばない。
扉のノブを握り、ひと呼吸する。そして表情を引き締めた。
「俺はあいつとは違う」
確かめるようにつぶやく。リューグは、扉をあけた。
……いつからか、うとましい存在だった。
幼い頃は甘えたりもしていたのかも知れないが、少なくとも自分が覚えている中では常に、自分たちは反目しあっていた。
いつも彼は自分とは逆の道を行く。自分とは正反対のことを考え、語り、おこなう。
うんざりだった。もしかしたら彼は自分に不快な思いをさせるためだけに、自分と違うことをするのだろうかと思ったこともあった。
だが同時に、彼がそのようなことをする男ではないということも、リューグは知っていた。その事実が尚更リューグを苛立たせた。
「リューグ」
廊下を歩いていると、声をかけられた。
それが誰かは、振り向かなくとも分かっていた。
「……てめえか」
リューグは後ろに向き直り、少年の正面に立つ。同じ目線にある静かな瞳が、まっすぐにリューグを見つめていた。
「行くのか」
さっきまで照っていた筈の夕日は今はなく、廊下はほのかに暗かった。雲が太陽を隠してしまっているのかもしれない。
リューグは、薄暗がりに立つ少年の問いに、短く答えた。
「ああ」
不思議と、見透かされていたことには何の負の感情も沸かず、心はただ穏やかだった。
「行く」
少年の瞳に少しだけ、憂いが滲む。
「―――アメルが悲しむ」
その言葉にリューグは、はっ、と鼻で笑った。
「知ったことかよ。俺は、仇をうつために強くなる。そのために行く。てめえらは戦いたくないってんなら、勝手にすりゃいいさ。黒騎士から逃げまわりながら、めそめそ泣いてればいいんだ」
「……」
少年の眉根が、苦しげに寄せられていく。
リューグは急に高ぶり、声を荒げて言った。
「俺はもう、お前と一緒に走らない」
相手が驚くのが分かった。リューグも、自分の口からついて出た子供じみた台詞に驚いていた。
気まずくなり、それ以上なにも言わずに顔をそむける。少年も、何を考えているのか、黙っていた。
見つめる先の窓ガラスは暗い。遥か遠くを見やると、隠されてしまった太陽が悪あがきをしているのか、赤い糸のような光が一本だけ灰色の空から街に垂れていた。
「……そういえば、お前とはいつも一緒だったな、リューグ」
ふと、少年がつぶやく。
外の赤い光はだんだんと太くなってきている。太陽が徐々に、街に緋色の液体を流しこんでいっているかのようだ。
リューグは窓を眺めたまま、しばらく経ってから「不本意だったがな」、と低くつぶやいた。
「僕たちはずっと、喧嘩ばかりしていた。殴りあったりもした」
そしてほとんどは俺が勝った、と心の中でひとりごちる。
「いつも正反対で。僕が過激なことをするとお前が穏やかであったし、お前が牙を剥いたら僕が止めた。どうしてだろう。僕たちは、同じ血を持っているのに」
「血なんて関係ねえ」
強い口調で言った。
「てめえとは、気が合わねえ。気に入らねえ。それだけだ」
リューグは窓から目を離し、正面を向いた。強く、目の前の少年を見据える。相手の瞳はとても近くにあった。そこに宿る真摯な光が、リューグの視線の先でひときわ強くなった。
「じゃあリューグ、僕たちはどうしてずっと共にいたんだろう。何をするにも一緒だった。僕がどんなに全力で走っていても、リューグ、横を見るといつもお前の顔があったよ」
逃げ去ろうとして逆方向に走っているつもりだったのに、いつも側にいた。同じ速さ、同じ目線に、この瞳があった。
リューグも少年も、痛みに耐えながらもいつも相手と離れようとしていた筈だった。それなのに何故か、離れられなかった。
―――いったいなんなのだ。
この不自然な関係はなんだ。目の前のこいつは誰だ。
赤い少年は、青い少年を見つめた。青い少年も、赤い少年を見つめた。つよく、視線を交わす。
その時、さあっと光がさした。
閉ざされていた太陽が雲を押しのけ、窓を照らす。
ゆっくりと、廊下いっぱいにまばゆい赤が広がっていき、ふたりの影を長く伸ばした。
燃えている風景。そのなかでリューグは、目の前の少年が炎の色に染め上げられていくのを見た。青の静けさは消え、そこには見覚えのある激しさがあった。同じものだった。
この瞬間、赤い少年は先の問いを唐突に解した。
赤い少年がふたり、光の中で見つめあう。無言だった。言葉は必要ないもののように思えた。
―――語る必要はないんだな。
赤い少年が思った。
―――自分たちはずっと、ひとつのものだった。
赤い少年も思った。
分かれているようで、分かれていなかった。
怒りと衝動は片方が。嘆きと抑制はもう片方が。
ひとりがもつ筈の様々な対のものを、ふたりで持っていた。
時には互いの持っているものを交換したり、返したりをしながら、ひとつの道を歩み続ける。
それはまるで根のつながった2本の樹木。体のつながった双生児。
―――だけど、もう違う。
―――ああ。
―――今度こそ、違うものになる。
―――ああ、そうだな。
リューグは手を伸べて、ほとんど距離のない少年の胸にあてた。服の上からでは分からないが、きっと同じ鼓動。少年はじっとリューグを見守っている。
リューグは手をゆっくりと伸ばした。ふたりの体を、離していく。
少年の瞳が、遠ざかっていく。
腕が完全に伸びきった時、リューグは言った。
「俺はお前とは違う」
「ああ」
「俺はお前のようにはならない」
「ああ。僕も、リューグ、お前のようにはならない」
ふたりの言葉は光の中で寂しく響いた。
ずっと前から決まっていた儀式の文句であるかのような、淡々とした呟きだった。
リューグは少年の胸についていた腕を、そっと下ろした。
リューグは少年に背を向け、出口に向かって歩き出した。数歩すすんだところで、声が耳に入ってきた。
「こんな日が、いつか来ると思っていたよ」
足を止めずに、リューグは歩き続けた。
玄関の扉の前に立ち、ようやく振り返ると、少年はまだそこに立っていた。
夕焼けの光は既に消え、青い影が彼の周りを覆っている。
リューグは唇だけで彼に語りかけ、扉を開いた。吹き抜ける風が前髪を揺らす。
「さよならだ、兄貴」
―――その日、ふたりは分かたれた。