ポラロイドカメラ 夜は更けた。
夕方から続いた宴はすでに穏やかな談笑にかわり、広すぎないホールはもやのかかった暖かさに包まれている。馬鹿飲みをしていた連中もようやくおとなしくなり、床や椅子の上で、静かになっている者もちらほら見られた。
それでも時折、あちらこちらで弾ける笑い声がどっとあがったりもする。
レナードは、そんな花の合間を、よろける足取りで歩いていた。機嫌はすこぶる良い。
ぶつかるように壁に背をつけ、にやけながらタバコに火をつける。深く吸い込み、肺いっぱいに満たして吐くと、沈静効果が波に揺られながらやってきた。視界は煙におおわれていく。愉快だ。今夜は何もかもが愉快だ。
タバコをくわえてぷかぷかふかし、灰色の膜をすかして辺りをにんまり眺めていると、その膜の向こう側から、ひとりの少女が近づいてきた。
「あらら、今日の主役が壁の花だ」
少女は手を振って煙を散らす。クリアになった彼女の顔は真っ赤で、とけるような目が笑っていた。
「よぉー、トリス」
大ぶりな動作で片手をあげる。少女は真似してよぉー、と手を上げた。
「レナードさん、たくさん飲んだみたいねー」
「お前さんこそ、顔真っ赤だぜ」
「へへー。さっきネスに怒られたー」
ぐにゃぐにゃだ。
そら怒られるだろうな、と離れた場所に立ってこちらをうかがう兄弟子を見やる。
目が合うと、飲んでいるはずなのにほとんど顔色の変わっていない彼の表情が少し緩み、軽い会釈をしてきた。
「へへっ、トリス、あんまり奴っこさんに心配かけんじゃねぇぞ。奴っこさん―――」
言いかけてから思考がぼうっとしてしまい、言葉が続かなくなる。額にこぶしをつけてうなってから、近くのテーブルから水をとって飲んだ。
冷えた水が火照る喉をとおるのを感じながらレナードは、また酔いが回るのが早くなったなあ、とほんの少ししょげた。
「奴っこさんが何?」
「忘れた。―――ああ、うめえなぁ。もう一杯、っと」
空になったグラスに水をとくとくついでいると、ゆでダコが得意げに胸を張った。
「おいしいでしょ。何たって、とびきりいいお酒どーんと揃えてもらったんだから」
「水だぜ、これは」
「水もよ。だって、今日はあたしの不出来な弟子の卒業式なんだもの。あたしの一番弟子。たったひとりの……。何だって、おいしくしたわ」
レナードはへえ、と相槌をうちながらまいったなあ、と思う。こちらは年と酒のせいで防壁が弱くなってるんだから、勘弁してほしい。
レナードは足元を見ながら水をちびりと飲み、自分の表情をよく確かめてから顔を上げた。
「―――ありがとよ、先生」
声に深いものがこもっていたかもしれない。
先生は大きな瞳をみるみるうるませて、胸に抱きついてきた。
まわした腕の中で先生は娘に変わる。レナードは父親の手で、その頭を撫でた。
レナードの異世界での生活は、2年と半分で終わろうとしてた。
始まりも突然なら、終わりも突然。
レナードが「元の世界に戻れる」という報せを受けたのは、何の変哲もないある日の午後のことだった。
いつも通りはかどらない召喚術の修行にくたびれて、ぐったりのびながら煙草を吸っていた休憩時間。苦笑するトリスから一通の手紙を手渡されたときには、自分宛てのものなど珍しいなと思ったぐらいで、その中身を想像だにしなかった。
西の街に住む少年から届いたものだった。読みながらレナードは、くわえていた煙草をぽろりと落とした。
頭の中に、一発の銃声がよみがえる。それは自分が、刑事の肩書きで放った最後のものに違いなかった。
二年半の時を超えて、弾は幻の日常をガラスのように撃ち砕いたのだ。
「えへへ、ごめんね? 本当は笑って、明るく送りだそうと思ってたのに」
そう言って体を離したトリスは照れたように笑った。レナードは苦笑し、胸の高さにある頭をぽんぽんと優しくたたいた。
「まったく、君は仕様がないな。ほら、これで顔をふけ」
いつのまにか側に立っていたネスティが、ハンカチをトリスに差しだした。
「ん、ありがとネス……」
顔をごしごし拭きながら辺りを見まわす少女に、すかさずネスティから言葉がかけられる。
「水か? 水なら向こうのテーブルに余っている。欲しければもらってくるといい」
とことこと歩き去るトリスの後姿を見送ってから、ネスティは自分に向き直った。
「すいません、レナードさん」
「いや。ははっ、お前さんは相変わらずいいワイフやってるな」
「ワイフ、ですか」
「かみさんのことさ。いい女房だよお前さん。トリスにぴったりだ」
「……レナードさん!」
「いや、ジョークジョーク」
ため息をつかれる。
この召喚師コンビは、からかうと本当に飽きない。二人のやりとりをみているだけでも面白い。何でさっさとくっつかないのか、レナードには不思議だった。
「まったく、貴方はいつもこの調子ですからね。召喚術の修行のときも、」
「ストーップ、説教は勘弁してくれよ先生。最後なんだからな」
「―――淋しくなります」
レナードは驚いて目の前の青年を見やった。
「お前さんにそんなことを言ってもらえるたぁ思わなかったぜ。うれしいよ」
「貴方は僕にとっても初めての弟子でしたからね。……、まいったな、トリスのことは叱れない」
そう言って目を伏せるネスティを、レナードは温かく見つめた。
「いや……俺様も正直年甲斐もなく、くるものがあるよ。世話になった奴らと飲めて騒げて。いい宴をひらいてもらってなあ」
ネスティは視線を上げて、口元に静かな笑みを浮かべた。
「どうか、お元気で。いや、これを言うのはまだ早いかな。明日は、いつ頃経つ予定ですか」
「昼かな。ミニス嬢ちゃんのところの高速船に乗せてもらえるらしい」
「港まで見送ります」
「ありがとよ、ネスティ」
レナードが元の世界に戻るためにまず向かう場所はここより遥か西の街―――サイジェントである。そこで一人の少年と合流することになっていた。
ハヤトという名のその少年は、国は違えど同じ世界の住人で、やはりレナードと同様にある日突然召喚術によってリィンバウム呼び寄せられたのだという。
ハヤトは類稀な大きな力の持ち主である。彼はこの世界に選ばれた存在だった。
その大きすぎる力は今まで、彼に多くの困難を強いてきた。しかしそれがいま、故郷への閉ざされた道をひらくという不可能を、可能にしようとしていた。
何でも召喚の対となる送還という術をマスターしただの、次元のねじれを固定してその術を元の世界に向かって放つだの。先日直接顔を合わせたときに色々説明を受けたが、内容はさっぱりわからなかった。自分はやはり出来の悪い弟子だった。
だがとにかくすごいらしいその力の恩恵を、自分は受けることになった、そういうことらしい。
(しかし、こうなると俺様の二年半の召喚術猛特訓の日々は一体、ってことになるな……。まあ、何だかんだいって楽しかったからよしとするか。ここは素直にありがたがっておくことにして、だ)
問題は3人目のことだ。
レナードは、あのキールという少年のことを思い出した。
ハヤトの友人だというその少年は、生まれも育ちもリィンバウムの召喚師である。それが何を思ってか、ハヤトについて世界を渡るという。
その話を聞いて、レナードは反対した。お節介だとわかっていたが、あの世界のたった一人の大人として、そうすることが自分の役目だと思ったのだ。
習慣や言葉、法の壁。金の問題だってある、彼らはまだ若い。片方が何もわからない状態で二人、食べていけるのか?
案外どうにかなるかも知れない。しかし、どうにもならないかも知れない。レナードは、どうにもならなくて泣きながら落っこちていってしまった若者たちを、たくさん見てきた。
レナードはキールを諭した。自分の世界の色々なことを、話して聞かせた。
しかしキールは、あきらめなかった。
彼にとって大事なのは、行った後の困難なのではなく、ハヤトを失わないこと、それのみのようだった。
(若さってやつか? これが)
頑なさ、危うさ、信仰に似た盲目。別れに脅える純粋な魂の、握る手の強さ。
(いや、でも年は関係ねぇかもな。俺様も考えてみりゃあ似たようなもんだ)
自分とて、喪失を埋めに帰るのだ。あきらめることができずに。
失えない居場所にしがみついているのは、彼と自分、どこも違いはないのかもしれない。
レナードは結局、最後には反対することをやめた。そうすることも自分の役目だと思った。
「よし、わかった。いいかキール、お前はまずは俺様と一緒に来るんだ。約束する、いつか必ずお前をハヤトの元に連れて行ってやるから。そしてもしも、あちらの世界に着くときに俺様とお前ら2人が国を隔てちまったら、すぐにこちらに連絡をとるんだ。送還術のことはよくわからねぇが、何かの具合でバラバラになっちまうことも、あるかも知れねぇからな。いいな、ふたりとも」
レナードは、ふたりの父親になることを決めた。
*
「レナードさん」
気づけばすぐ目の前に、ミニスがこちらを見上げて立っている。手のひらで包むように持っているグラスの中身は勿論、ジュースだ。
「おう、どうした嬢ちゃん」
「レナードさん、お酒飲みすぎたんでしょ。大丈夫?」
「嬢ちゃん、俺様はこれくらいで潰れるような下戸じゃねぇぜ」
「へぇー、でも年をとるとお酒弱くなるんでしょ? この間フォルテが言って……きゃっ!」
「言ったな、ミニス」
腰をかがめて頭をわしゃわしゃ撫でると、ミニスはくすぐったそうに笑った。
「えへへ。……そうだレナードさん、本当に何もプレゼントいらないの?」
「ん? ああ、いいよ。俺様は物を贈られるとか贈るとか、そういうのが苦手でな」
自分の人生で贈った唯一のプレゼントが、結婚指輪だった。レナードは密かに苦笑いをした。
「大体、突然消えた人間が帰ってきたら両手に土産、じゃ周りに何て言われるか分からんよ」
「それだったら、ポケットに入るぐらいの小さなやつだってファナンの下町にゃたくさんあるよ? 何だったらあたいが明日の朝ひとっぱしりして―――」
モーリンがミニスの肩越しに身を乗りだしてきた。
「モーリン、いいんだ。俺様はもう胸がいっぱいでな、これ以上は本当に必要ねえのさ。物なんかなくたって、俺様はここでのことやお前さんたちのことを、忘れたりしないぜ。絶対にな」
「レナードさん……」
レナードは照れたようにタバコをくわえたが、すぐに離して口をひらいた。
「代わりにといっちゃなんだが、ひとつ頼みがある」
「何?」
「なんだい?」
ミニスとモーリンが勢いよく尋ねてくる。いつの間にか他の連中も、話をやめてこちらに注目していた。
レナードはその顔を一つひとつ見渡しながら、言った。
「―――写真をとらせて欲しいんだよ。ここにいる皆のな」
「シャシン?」
「写真。フォトグラフ。何て説明すりゃいいのかな。まあ簡単に言うと、カメラっていう機械を使って、人や風景を一枚の絵にしたもののことさ」
「風景を、絵に?」
「そうだ。一瞬で、本物の情景をそのまんま四角く切りとったかのような、忠実でとびきりうまい絵ができあがるんだ。こんな風なのがな」
レナードは、懐からよれよれになった一枚の写真を取り出して見せた。
そこにあるのは、あどけない少女の姿。時を止めた、在りし日の情景だ。
「これもカメラで撮った、写真ってやつだ」
ミニスらの後ろから、何人かが好奇心に満ちた目でのぞきこんでくる。その中に混じっていたトリスが、顔を上げて言った。
「レナードさん、そのカメラって機械を持ってるの?」
「ああ。ここに」
言ってレナードは両手の人さし指と親指で四角い枠を作る。
不思議そうに首をかしげるトリスをその枠におさめて、カシャン、と言った。
「さあさ、みんな並んだ並んだ」
ガヤガヤと歩いて仲間たちが広間の後ろに集まっていく。みんなまだよく分かっていない顔をしているが、どこか楽しそうである。
レナードはそれを、ポケットに手をつっこみながら眺めていた。
色んな顔が、目の前を通り過ぎる。そいつらを透かして、今は懐かしいたくさんのことを、レナードは思い出していた。
―――思えばこいつらはみんな、俺様の子供だったんだな。
まあちと、年齢的に無理があるのも混じってはいるが。
レナードはアグラ爺さんに会釈をされて、思わず誤魔化し笑いをした。
「さて、みんな枠におさまるように並んでくれよ。リューグ、はみ出てるぜ、もうちょっと真ん中寄りな。イオス、少し背伸びしてくれ。トリス、……そう。そのままだ」
指のファインダーの中に、一枚の絵ができあがる。レナードは片目をつむった。
きょろきょろしている少女、顔を引きしめた少年、揺れる尻尾、センサーの目。
酔いつぶれて友の肩を借りている男、緊張した娘、背伸びする頭、眼鏡をあげた青年。
ひとつひとつ、目に焼きつけていく。
(子供たち、笑ってくれ。お前たちの未来は明るい)
全員がこちらを向いて止まった。中央に座るトリスが、満面の笑みを浮かべる。
(そうだ、いいぞ。
―――ああ、何てこった。ピントがぼけてきやがった。ろくなカメラじゃねえな、こいつは……)
レナードはきつく目をつむってから、再びファインダーをのぞきこんだ。
「よぉし、撮るぜ。動くなよ」
*
レナードは、手のひらを見つめたままじっと立っていた。
「レナードさん、何が見えるの?」
近寄って不思議そうに問うてくる娘に、レナードはにやりと笑い、それを懐にしまった。