合わせ鏡 不思議な光景だった。
黒々とした空間の中にぼうっと、人の姿が浮かび上がっている。
それもひとりではなく、夥しい数の人間が私に背を向けて一列に、遥か前方まで連なっているのである。真っ直ぐに並んだまま、進むこともせずただただ立っている。
何故彼らはこの様に並んでいるのか、そして何故自分が列に加わっているのか。
何ひとつ分からないまま、私は背の影から顔だけ出して、先頭はどこか探そうと遠くに目を凝らしていた。
人々の背中は地平に近づくにしたがって小さくなり、果ては暗闇に吸い込まれるように消えている。彼らはみな、石膏像のように動かない。勿論会話などもしていない。もしかしたら、呼吸さえしていないかもしれない。
馬鹿な、と思いつつ私はさらに列を観察した。
すると地平と自分との中ごろで、よくは見えないが、確かに何か動いているのに気づく。
動きの気配は、前から後ろへと伝ってきている。ゆっくりと、自分の方に近づいてきている。
しばしして、彼らは順繰りに何かを手渡しをているのだと気づいた。手を差し伸ばして受け取り、胸に抱きかかえて体を緩慢に反転させて、後ろの者に差し出す。それを繰りかえしている。
この調子であれば、自分のところにも来るのだろう。
そう思っているうちに、すぐ前の背中が傾いた。いつの間にやら自分の番が回ってきたようだ。ぎぎ、と音が聞こえてきそうな程ぎこちなく、目の前の者が私の方を振り向く。
「父上……!?」
私はぎょっとして、思わず声をあげた。
無表情な顔を蒼白にした目の前の男は、確かにとうの昔に亡き父だったのだ。
口を開けたまま立ちつくす私に、父は何も応えず両手に持った物を差しだした。
私は戸惑う。目の前に出されたそれは、得体が知れなかった。黒と思えば白に見え、大きいと思えばひどく小さかった。不自然なほど、とらえどころがない。
私が迷っているうちに、父の腕はぶるぶると震えだした。どうやら重い物であることは間違いがないらしい。私は慌ててそれを受け取った。
重かった。受け取った瞬間、思わず取り落としそうになる程に。
―――こんなにも重い物を、こんなにもたくさんの人間がいて、誰ひとりとしてこぼすことがなかったのか。
まるで奇跡のようだと私は思った。そして自分も失敗してはならないと覚悟を決めた。
足腰に力をこめる。壊さぬように、しかし力強く胸に抱え直すと、私はそのまま先達に倣って後ろの者に手渡そうと一歩をひいた。つま先で慎重に地面を探る。そして顔をめぐらせ、振り向いた。何もなかった。
「……っ」
息を呑む。
私は肩越しにふりかえったまま衝撃に固まり、広がる暗闇に愕然とした。
足をひきずるようにし、ゆっくりと体を反転させる。
視界がとらえたのは、やはり光ひとつない闇だった。自分の前にあったのと同じような延々と続く人影は、そこにはない。
脇から汗が吹き出てくるのを感じながら、私は声をふりしぼった。
「誰か」
応えはない。
「誰か。早く、これを受け取ってくれ」
訴えは、しかしぽっかりと開いた底のない井戸のような暗がりに落ちていく。
私は途方に暮れて立ちすくんだ。既に膝はがくがくと震えている。こめかみに汗が流れるのを感じた途端、こらえきれずにくず折れた。拍子に、両手からそれが零れ落ちる。拾おうと思って手を伸ばしたが、すぐにそれは自らの重量でめり込むように、地面に沈んでいった。
「ああ」
悲鳴を上げた。
なんということだろう。失敗してしまった。皆が伝えてきた尊いものを、自分が喪ってしまった。
過去の人たちの視線が突き刺さるのを感じて、体を縮こまらせる。地に両手をつけ額をこすりつける。ひどく惨めで、大声で叫びだしたくなる衝動が私を襲った。
「何故だ。どうして私の後ろには誰もおらなかった。何故―――」
「―――さま」
ぼやけた目をあげた。
いま、声がしたような気がする。壁の向こうから聞こえてきたような、あいまいな響きだった。幻だろうか。
「しっかりなさいませ」
今度は確かに聞こえた。男の声だ。
私は何もない黒い空間に、血走った視線をはしらせて、問いかけた。
「誰だ」
ぼうっと、闇から色彩が滲み出てきた。
その染みは段々と大きくなり、人の形をとって、最後にはひとりの男の姿になった。見知った顔だった。
「おまえは……」
白い鎧をまとった騎士が立っていた。彼は私を、憂いを含んだ目で見下ろしている。
「―――」
私は彼の名を呼ぼうとして開いた口を、固まらせた。
彼の左手が、喪われた筈のそれを抱きかかえているのを見たのだ。私は呆然とし、目を見開いていたが、そののち全てを悟った。
もの云わぬ薄茶の瞳に、問いかける。
「お前が、続かせてくれるのか」
彼は無言で、目を閉じた。承諾の印だろう。
私は安堵して、体中の力を抜いた。
目を閉じてたたずむ彼の、マントの裾が音もなくなびく。頬に落ちる影は、あらゆる悲しみを負おうとしている証に思えた。
彼もまた、ひとつの象徴としてこの暗闇にたつのだろう。淡い光を帯びながら、彼自身の名と顔から離れた何かになるのだ。
そうして私と私の先達たちが伝えてきたものを受け継ぎ、後ろへと手渡していく。続かせていく―――。
「感謝する……」
歯をかみしめ、地についた拳を握りしめる。私は深くこうべをたれ、白く浮かび上がる影の前でうなるように云った。目じりには、熱いものが滲んだ。
それからどれ程の静かな時間を過ごしたか。
頭の上の方で、白い影の右手がゆっくりと掲げられる気配がした。高く高く。私は何か甘いものでも待ち侘びるようにじっとする。
そしてその手が振り下ろされる最後の瞬間まで祈り続けた。合わせ鏡の結ぶ像のように、彼の背にも果てしなく白い影が続いていることを。
これが私の意識の全てである。