毀れた弓 嫌な予感はした。
まずいな、と思ったときには既に遅かったのだ。次の瞬間ぶつりと低い音がして、指にくいこんでいた弦の抵抗が消えた。
そのままするりと手から抜け、倒れるように落ちていった糸を見ながら、ケイナは思わず天を仰ぎそうになった。
(なんてこと)
弓づるが切れてしまった。
「おいケイナ! 援護してくれ」
男の怒鳴り声が聞こえてきて、ケイナはハッとした。
男は人の形をした獣と対峙している。鋭いかぎづめと男の大剣がかみ合い、相手の喉元をとらえようとする力が震えながら拮抗していた。
「弦が切れちゃったのよ!」
男の背に叫びかえしたが、どうやら気づいてもらえなかったようだ。
「おいっ!」
再び声が飛んだ。心なしか焦りが滲んでいる。遠目にも、彼が苦戦しているということがわかった。
とっさにケイナは足もとの石を拾いあげ、力を振りしぼって投げた。
(あたれ)
石が矢の代わりになるはずがない、ということに投げた後に気づいたが、とりあえずはあたれと念じる。
「ぐぁっ」
あたった。
ただしそれは味方の、男の頭にだった。
「いってぇぇ! 何すんだよ―――っつぁ!」
頭をおさえた男が、すんでのところで敵の攻撃をよける。爪は胸をかすり、男の衣服を裂いた。
ケイナはたまらず叫んだ。
「フォルテ、逃げるわよ!」
身を翻してふたりは走りだす。
男の放った逃げざまの一撃が効いたのか、敵は追ってはこなかった。
もしかしたら、男ひとりに任せてもこの場は何とかなったかもしれない。
ちらりとそんなことを思いもしたが、やはりケイナは自分が何もできぬまま、この男にすべてを負わせてしまうのは我慢がならなかった。
*
「いったいどんだけの力で引き絞ったんですか、おねーさん」
たき火がぱちりと火の粉をあげた。
ケイナは手に持った枝で燃える薪をつついてから、その枝を火の中にくべた。
「うるさいわねぇ。普通に引いただけよ」
「普通に、ねぇ。さすがケイナさんの黄金の右腕、すさまじい怪力……うごっ」
黄金の右腕は届かなかったので、そこらの石を投げた。本日2度目のアタリに、フォルテは額をさすってぼやいた。
「あたた、ひでぇ扱いだな、おい。仮にも武器を直してやってる相手に」
「あんたは口が余計なのよ」
フォルテはまだぶつぶつ文句を言っていたが、ケイナが目を細めてにらむと「鬼がいるぞ鬼が」とつぶやいて静かになった。
男の手の中には、弦のなくなった自分の弓がある。切れてしまった古い糸と新しい糸との交換をしてもらっている最中なのだ。
器用な男は当然に自分の仕事として作業にとりかかり、自分は素直に彼に任せた。
こうした仕事の分配は暗黙のうちに二人の間にあるもので、相手の領分に属することならば、ケイナとて頼り切ることにもためらいはなかった。
たき火を挟んで座るフォルテの顔は、いつしか真剣だ。オレンジ色の灯りが、彼の表情と瞳の動きをつぶさに教えてくれる。
―――このようなフォルテは、実は少し苦手だ。
いつも真面目になりなさい、と説教しているくせに、いざ彼の真顔を目の前に見せられると、ケイナはどうしたらいいのか分からない。胸騒ぎがしてしかたがないのだ。
こんなことを本人に言えば、何だ胸騒ぎって、ひでぇな、などと抗議されるのだろうが。
そんなことをぼんやり考えていると、フォルテの顔の前に弓が垂直に立てられた。使いこまれた胴が明々と照らされる。
弓越しに、男と目が合った。
「何だ、ずっと見てたのか」
「ほかに見るものないもの」
「惚れたろ? このイケてる男の真摯なまなざし」
「ばっかじゃないの」
力をこめた即答に、目の前の男はがっくりと肩を落とした。
「ああ、さいですか……」
ケイナはやさぐれた風の態度に可笑しくなり、また少しばかりすまない気持ちにもなって、
「器用だなって、感心して見てたのよ」
と幾分やわらかく言うと、男はすぐに気難しげな顔をつくって見せた。
「今更ほめてもだなあー」
「じゃあほめない」
「いや待て待て待て。うん、ようやくお前も俺の良さが分かったか」
「少しね」
「少しかよ」
意味のないやりとりを交わして笑いあう。夜の森の暗さを、ケイナはしばし忘れた。
「―――まあ、あれだ。お前は超がつくほど不器用な女だからな。やっぱこのフォルテさまが面倒見てやらねえと……」
言ってからフォルテはさっと身構える。いつものように何か飛んでくると思ったのだろう。
しかしケイナは、黄金の右腕を振りあげることも、投石の制裁をすることもしなかった。
「あれ?」
「……そうね」
「ケイナ?」
何だ本気で怒ったか、とフォルテはたじろいでいる。ケイナは微笑みを浮かべた。
「ううん。本当にそうなんだなって、ちょっと思っただけよ。いいから、作業続けて?」
「……」
釈然とせぬまま、フォルテは新しい弦を再び巻きはじめた。ケイナは、膝を抱えなおして、揺れる炎の中心を眺めた。
(―――は、不器用だから……)
時折、頭に響く声がある。
それは幻聴というには内にこもりすぎていて、聞きとれるか聞きとれないか、というかすかなものだった。
やわらかい、娘の声音。
最初は自分の声なのかとも思った。だがそれならばこんなにも懐かしく、あたたかい気持ちに包まれるはずはない。
きっと誰かの声―――誰の?
ケイナは視線を落とした。ほどかれた古い弦が視界に入る。
フォルテから先ほど手渡されたそれを、ケイナは指先でつまみあげた。
ぼろぼろだった。伸びて細くなった箇所が何個かあり、今まで持ちこたえていたのが不思議なぐらいである。
切れるべくして切れたといった感のそれを見ながら、ケイナは、弓を握って過ごした時間を思った。
(どれくらい経ったっけ)
はじめて男と会ったあの時から、今日までの時間は。
暦もないし自分で数えてもいなかったから、日にちは分からない。
では、自分の中ではどうだっただろう。
長かったような気もする。でも短かったような気もする。やはりそれも、よく分からないようだ。今のケイナには、比べて測るための「それ以前」の記憶がないから。
(いいえ、違うわ。「ない」んじゃない。ただ、忘れただけ)
そうだ、確かにある筈なのだ。自分の中に、20数年間の歴史が。
きっとそちらがほんとうの人生。今この時こそが仮のものなのだ。時機がくれば、消えてしまう。自分はどうすることもできない。
―――さまは、不器用だから……。
ケイナは膝に顔をうずめた。まぶたを閉じた先に広がる暗さに、問いかける。
(いつかこの弦みたいに、突然切れてしまうかもしれない。そうしたらあんた、どうする?)
「よっし、できたぜ」
顔を上げた。
フォルテのひどく穏やかな笑みが目に入った。
「カンペキだぜ。見ろよ、この匠の技を」
赤く照らされた弧が差し出される。
手を伸ばして受け取ると、なじんだ感触が手の中に広がった。
「……どれどれ」
目の前に弓を立てて確かめる。
ピンと張った白い糸が、まっすぐに渡っている。少しのたるみなく、凛とした線。
指で爪弾いてみると、震えてはずんだ音がした。緊張感があって、そしてどこかくすぐったい音だ。
「いい具合ね。ありがとう、フォルテ」
フォルテは、おうよ、と鼻の下をこすった。
ケイナがうつむいて再び弦に触れていると、それを眺めていた男が静かに口を開いた。
「―――もしまた、糸が切れちまったらよ」
「うん」
ケイナは視線を手に落としたまま相槌をうつ。
「また、俺が直してやるよ。ケイナ」
びぃん、びぃん、とケイナの手の中で弦は楽器のように音をたてて跳ねている。
ふと、ケイナが顔を上げて、言った。
「頼りにしてるわよ、相棒」
たとえいつか切れるのだとしても―――。