ナンバリング まだ希望を捨てていなかったのは、3番目の僕。
食事を食べさせてもらえなかったのは13番目の僕。比較的周囲とうまくやったのは16番目の僕。
塀の中から飛び出して見事逃げおおせたのは25番目の僕。そしてふがいなく捕まってしまったのは26番目の僕。
3歳までしか生きられなかったのは35番目の僕で、異例と言える長い寿命、45歳まで生きることができたのはその次の次の僕だった。
―――どの僕も泣いているな。
腕組みして流れていく映像を検分しながら、ぼんやりと考えた。
すぐさま、海水に似た味が口の中に広がっていく。耳元では嗚咽まじりの声がひとつ、ふたつ、とどんどん重なりあって、しまいには滝のように轟々と響いた。
僕は顔をしかめる。
*
「先祖の記憶をすべて子孫が受け継ぐ」、という僕の一族の特質を羨ましいという輩がいる。
人が一生では持ちえない量の知識を労せずして手に入れることができるとは、なんと便利な血であるのだろう、と。
あからさまな皮肉と嫉みをこめて吐かれるその言葉を聞くたびに、僕はいつも笑ってしまいそうになる。なんなら代わってさしあげましょうか、と申し出てやりたい。
老人の記憶を生まれたばかりの赤子がもつ意味を、彼らはまったく知らないのだ。知ろうとさえしない。
本当なら希望と不思議で溢れているはずだった、新しい世界。……その裏の暗さを瞳にうつして泣く子の声を、今まで想像したことだってないのだろう。
数百年分の、他人の記憶。
それは圧倒的な存在感をもっている。片時だって、忘れることなどできないほどに。
人とはどのような生き物であるのか、世界はどのようであるのか。―――膨大な資料はいつも、頭の中から休むことなく僕に語り続ける。大部分は悲観的なものだ。思わず耳をふさぎたくなるような……ふさぐことは、できないのだけれど。
また、過去の記憶は僕という生き物について教えてくれる。
人は誰でもみんな、自分は他よりちょっとでも特別な存在である、と信じて生きていくという。
だが僕にはそれは許されないことだった。
僕のなかにある数えきれないほどのデータが、「所詮お前も他の者と同じなんだ」とささやいている。「どんなにあがこうとも無駄なんだ、かなしく死んでいった一族と同じ生をたどるんだ」、と。
(お前は幾百番目かのライル、ただそれだけだ。ちっとも特別じゃない。他の番号と入れ替わることが可能な、一個の部品なのだ―――)
今日も僕は、数百年の時を頭のなかに抱えながら、過去の風景をさまよう。
一族の転機と破滅の日から数えて何番目かの男の夢。書斎で腕組みをしながら目をつむる姿は、やはり僕にそっくりだった。僕、そのものだった。
「ネスー」
つむった瞼の先から、控えめな声が聞こえてきた。
ネス? ―――僕だ。現在の僕の名前。
僕はまぶたを開けた。飛び込んできた本の匂いと暗い室内は過去の映像とそっくりで、どこまでが昔でどこからが今か一瞬わからなくなる。
僕はくらくらする思考を叱咤しながら、腕組みをほどかずに短く応えた。
「……なんだ」
「あら、起きてたんだ。ごめんね」
正面に座ってぺろりと舌をだすのはひとりの少女。僕の妹弟子―――トリスだ。
間違いなく戻ってきたことにホッとしながら、僕はしかめっ面をして口をひらいた。
「寝ていたら、いったいどうする気だったんだ? トリス」
「そりゃあ、毛布でも持ってきてあげようかと」
「嘘をつけ。逃げるつもりだったんだろう。問題は終わったのか」
「うう……あ、あとちょっと」
すかさずトリスの手元をのぞきこむ。
あわててガバリと机に覆いかぶさって問題用紙を隠す彼女に、僕は容赦ない言葉を突きつけた。
「真っ白だな。残りの問題をあとちょっとで全部解ける、とは頼もしい限りだ。期待してるぞ、心から」
嫌味たっぷりに言うと、机に半身を乗っけたままトリスはうなだれた。伏せた顔から、もごもごとこもった声をだす。
「聞こえないぞ」
「もー、いい……って言ったの」
「……」
また駄々こねがはじまった。僕は、はあ、とため息をついた。
「あたし、数学博士になるつもりないもん。この辺でじゅうぶん。数字の世界は垣間見えたわ、だからもうあたし大満足」
「あのな」
指でこめかみを揉みほぐす。
「この段階で垣間見えたなどと言うな、おこがましい。数学という学問はもっと奥深いものでな」
「自分が数学向いてるかどうかが充分見えたのよおー。ねえ、あたし他の分野で頑張るから」
起き上がって懇願するように見つめてくる妹弟子を、僕はぎろりと睨んだ。
「なんで頑張るつもりだ。召喚哲学か? 化学か? 歴史か、政治か経済か! どれだ!」
「わーっ、わーっ! あ! わかった、あたしの得意分野はゼラムの観光案内」
虫を払うように頭上で手をばたつかせていたトリスは、ふと思いついたように顔を輝かせた。
「君はバカかっ」
僕はまなじりを上げてしかりつけた。当然だ。
「むぅーっ。出たわねネスの口癖……」
「……」
ふくれた妹弟子の顔をむっつりと眺めながら、ふと、僕の頭に言葉がよぎった。
(この口癖をはじめたのは、「ネスティ」である僕より5つ前の者だった)
僕は、ごほん、とせきをしながら思わず視線をさまよわせた。今日はどうやら、ナーバスになっているようだ。
視界に入ったのは、本棚におさまった気に入りの本の背表紙だった。わずかに気持ちが落ち着き、胸を撫で下ろした。
途端、僕の脳は情報を弾きだす。―――この本をよく読んでいたのは、僕より2つ前の女だった、と。
「ネスゥ、これホントに全部やんなきゃ駄目?」
引き戻された。
顔を正面に向けると、きょとんとして手の平を振る少女の姿があった。
「ネス? どしたの?」
「いいや」
平然を装って答える。顔から血の気がひいているのを感じた。
「そお? 顔、白いの通りこして何だか青いわよ」
「うるさい、これが地だ。それより問題か? 全部やるに決まってるだろう」
頭の奥が渦巻いていて、眩暈がする。今日はいつにも増して、やけに不安定だ。そろそろ薬が切れる頃なのかもしれない。
「えええ。ねえねえネス」
机の上に身を乗りだした少女が、甘えた声をだす。僕はうるさそうに目を閉じた。
「駄目だ。駄目だと言っているだろう」
「ネス、あたしネスのこと好き」
「…………。は?」
口を開けたまま、一瞬固まってしまった。伏せていた視線を、妹弟子の紫の目に合わせる。
「それは、―――どうも」
ただでさえ先程からもたついていた思考がますますゆっくりになり、僕は間の抜けた返事をした。
好き。好き?
何番目の僕を―――この僕をか?
「トリ、」
意味が頭に浸透して、急速に頭の中の霧が晴れた。
思わず狼狽を見せてしまいそうになった次の瞬間、爆弾発言をした元凶が唐突にへらりと顔をゆるめた。ふざけた声が口から流れでてくる。
「もう、ね。好きよ好き大好き。やさしくて、うん、召喚術バリバリで。数学もバリバリでえ、まあ、カッコよくて、メガネとかね。時々面白いし」
僕は呆けたままパチパチと瞬きをしていたが、我に返って段々と目を細めていった。ようやく読めた。頭のなかがふつふつと沸いてくる。
「…………ほーう、それで?」
低い声の問いに、トリスはへらりと笑ったまま、
「うん、だからね、今日の授業はここまでにしない?」
言葉を言い終わる前に、丸めた書類で相手の頭をぱこりと叩いた。予想通りの展開だった。
トリスは額をおさえたまま、「いったいわよネス!」とぶうぶう不満をたれる。僕はぴしゃりとはねのけた。
「うるさい。ふざけた手を使って、誰がそんなので篭絡される。さあ、バカなことを言っていないでさっさと問題を解け。全問終わるまで、休憩はナシだ」
ナシ、の部分に力をこめると、目の前の不埒者は「えええっ」と叫びながら頭を抱えた。
(まったく……)
一瞬でもひやりとしてしまったなどとは、口が裂けてもいえない。
僕は顔の熱をどこかにやるために、眉を思いきりしかめた。なんで彼女は、こうも突拍子もないのだろう。
(数百年の記憶の中でも、こんなバカはいなかった)
検索しても、検索しても、出てこない。
こんなに滅茶苦茶で、目が離せなくて、心をむずむずとさせる少女は。
しぶしぶとペンを握る少女の、伏せた睫毛がまばたきに合わせて揺れている。
その向こうには少し低目の鼻の頭。唇。額にこぼれた前髪が、時々横切ってそれらを隠す。
眺めるうちに、頭の中にぱつりと音をたてて新たな言葉が弾きだされた。
……僕は戸惑う。
『特別』
もしかしたら初めてかもしれない、その言葉のもつ意味に。