ビデオショップ 俺は全部覚えているから、なんでも聞けと彼は言う。
それじゃあ、と聞いてみれば、なるほど彼は聞いたことすべてに答える。
ふたりが共に歩んだ日々の出来事。
大きなこと、小さなこと、大切なことからつまらないことまで、さまざまな思い出を本当によく覚えている。
「その記憶力、もっと違うことに使ったらいいのに」
完敗の様相をていしてきた回想ごっこに終止符をうつように、シャムロックが言った。
だらりと足を投げだしてベッドに座っていたフォルテが、首をぐるりと回しながら口をひらく。
「違うことって、なんだよ」
「学問とか」
「お前なあ」
呆れたようにフォルテが見返してきた。
「そんなつまらないことに、頭の大事なスペース使ってどうすんだよ」
「……」
彼は「生きるための雑学」至上主義者だ。
思い出や、旅の上で拾ったウワサ、お得な小ネタ集が彼の頭の大半を占めているが、そこに学術書のなかみが入る余地はこれっぽっちもないらしい。
それにたいして自分は逆だ、とシャムロックは思った。
自分が騎士見習いだったころ、礼儀作法の講義で習ったことは今でもよく覚えてたりするのだが、そのとき隣にいた男の子のことはまるで思い出せない。仲は良かった筈だった。
フォルテにそれを言うと、「ギーズだよ、そいつ」とすぐに少年の名前が返ってきた。
「まいったなあ。記憶力には自信があるほうだったんですが」
「記憶の使い道がちがうんだよ」
彼は笑う。
はたしてどっちが有益な使い方なのだろう。そんなことを考えてみようともしたが、意味がないのでやめた。思い出は大切だ。だが堅苦しい学術書や長い講義も、フォルテにとってはつまらなくても、シャムロックには確かに役に立っていたのだ。
「まあ昔のあれこれはよ、俺が覚えててやるから。お前は安心して忘れていいぜ」
「はあ」
妙な言い方だ。
「でも自分の身にあったことは、自分で覚えておきますよ、なるべく」
「うーん。まあそれが基本なんだが」
自分のひざに頬づえをついたフォルテが、指先で前髪をいじりながら言った。緑がかった金色が、彼の目の先でくるくると回る。
「しんどくねえか、ひとりで記憶もっとくの」
「……おっしゃっていることがよくわかりません」
「だからよ。自分が忘れちまったら終わり、ってのは後がないようで嫌だろ。どうせなら互いに持ち合おうぜ、記憶」
フォルテは体を起こして、前髪を撫でつけた。
シャムロックはしばらくあごに手をあてて考えこむ。
「つまり、思い出を共有しよう、ということですか?」
「ああ、それそれ」
フォルテは破顔した。
なんだそうか、とシャムロックは得心する。それならば否という理由など、どこにもない。
「それは素敵なことだと思います」
「うん、そうだなあ。どっちかが忘れちまっても、もう片方が覚えてて教えてやれるってのは、なんかいいよな。
あいつにもよ、ああ、あいつってケイナのことな、いつか記憶戻って俺らのことを忘れたら、俺が責任もって今までのこと話して聞かせてやるって、そう約束してんだよ」
それが相棒のつとめだ、ってな。
そう笑うフォルテに、シャムロックは少なからず衝撃を受けた。
さらりといった言葉の影に、部屋の中でひとり、ぼんやりとそんなことを考えつづけるフォルテの姿が透けて見えた。胸が熱くなる。
「フォルテさま……」
「ん?」
「それがフォルテさまの愛情なんですね」
感動しきってしみじみつぶやくと、フォルテは心底呆れた顔でシャムロックを見やった。それからうつむいて、頭をがしがし掻きながら呟く。
「お前はさあ……」
「はい」
「いやいい、いいんだけどさ。シャムロックだもんな、仕方ない」
「なんですか、それ。私だもんなって」
「お前らしいってことだよ。ったく、お前はいつも人を驚かせることすんなって俺に説教するけどな、肝を冷やした回数は俺のが断然多いぞ」
よくわからないので首を傾げておいた。
時々彼は自分に理解できないことを言う。だがその分からなさはシャムロックにとって不快ではなかったので、いつもシャムロックはフォルテを無理に知ろうとはしなかった。
そんなシャムロックを見て、フォルテは諦めたように苦笑する。
「……お前は不意打ちをよくやるよな、って言ってんだよ」
なんだ、彼は照れていたのか。
いまさらながらに思い至って、シャムロックはにっこりと笑った。
会話も途切れ、フォルテはベッドに腰かけたまま、そこら辺に転がっていた本を読みはじめた。ぱらぱらと速いスピードでページをめくっていく。本当になかみを読んでいるのか怪しい。
背表紙のタイトルを目に入れて、シャムロックはあれ、と眉をあげた。
気のせいかその本は、むかしふたりで暮らしていたときに彼が読んでいたのと同じもののように思えるのだが。
尋ねると、フォルテは顔をあげ、「そうだったか?」と意外そうな表情をした。
「私の記憶違いですか」
「いんや、そういえばそんな気も……あー、でも忘れちまったな、内容なんて」
ふむ、本当に記憶の使い道が違うようだ、とシャムロックは可笑しくなった。
椅子の背もたれによりかかって天井を眺める。木でできた、ところどころに染みのあるそれは、ぬくもりがあった。
頭の後ろからは時折、壁ごしに女性陣の笑い声が聞こえてくる。廊下をとおる人の足音もする。
温かく、ゆるやかな空気だ。心が和んでいくのを感じる。
こういう静かな時間が、シャムロックは好きだった。
戦いのさなかであっても平和は訪れるのだな、と思った。
たとえ5分でも、10分でも、心休まる時がくる。そんな小さなことが奇跡のようで、シャムロックは感動した。
良い気分のまま目を閉じると、喪った砦の光景が浮かんできた。ここ最近は、それが当たり前のことになっていた。すぐさま冷たいすきま風が心に吹きこむが、この穏やかさを奪うには至らない。顔を歪めることも、ないのだった。
……あの事件があって2週間ほど経つ。その間なんども回想して、なんども夢に見たが、そろそろ何も感じなくなってきていた。もう事実として昇華しているのだろうか。それとも麻痺しているだけなのかもしれない。どちらにせよ、今のシャムロックには好都合だった。取り乱したり、心配をかけたりしなくてすむ。
今日の昼間、喪われたローウェンで元の仲間に名を呼ばれたときも、自分は取り乱さなくてすんだ。他の人にも、彼にも、何も言わずに斬ることができたのだ。
どこかへ行ってしまった痛みは、いつか舞い戻ってくるのだろうか?
いつかこの時間を苦しみとともに思い出すときが、くるのだろうか。
その時には、きっと目の前の彼はいないのだろう。おそらく戦いにも決着はつき、かりそめに交わった道は、ふたたび離れていくのだ。
その事実が、シャムロックの胸にようやく痛みをはしらせた。
「どした?」
フォルテはすぐに心のなかの異変に気づいてくれる。本を読んでいた筈の彼が、顔をあげてこちらを見ていた。
既視感におそわれた。―――多分、気のせいではないだろう。こんな光景は、記憶になくてもこれまでに幾つもあったはずだ。
昔から変わらず、いつもこの金色の瞳は自分を分かってくれている。自分は彼のことを分かってあげられないのに、彼は自分のすべてを知っているのだ。
自分には、この人だけなのだ。
「……いえ。そういえば私のトライドラ時代を知っているのは、いまは貴方だけなのだな、と思って」
「……」
「そうなのだな、と思っただけで、別にだからどうというわけでもないんですが」
痛みを代わりに負ってくれたように、フォルテの顔が一瞬だけ歪んだ。
「―――そうか」
そう言って視線を落としたフォルテの表情はシャムロックよりもよっぽど重い。シャムロックは失敗した、と思った。
「本当にだから何だということでも、」
「俺はさ」
「……はい」
言葉を遮った声に、シャムロックは黙った。
「記憶力いいから」
「はあ」
あいまいにうなずく。
「お前の弱っちかった頃のしょうもない失敗談とか、一年間好きだった女の子にふられた時の話とか、そういう色んなことを俺はきっちり覚えてる」
「……」
「忘れない。大丈夫だ」
あげた視線は、まっすぐだった。自分を、強く見つめてくる。
その瞳を見ながら、シャムロックの頭にぐるぐると映像が駆けめぐった。
白くまばゆい石畳を走る子らの足、ゆれる街路樹と、嘘みたいに青い空。
弾かれた剣、仰向けに倒れた先の天井、のぞきこんでくる笑った瞳。
鳴りひびく鐘、墓地、抱きしめてくれた友の、肩越しに見えた滲んでいく太陽。
次々と現れては沈んでいくそれらは、すでに郷愁の色を帯びている。長い時も経っていないのに、望んでもいないのに、懐かしいものになってしまった。
いつかは、ぼやけて消えていくのだろうか。
「俺は覚えている。大丈夫だ」
シャムロックは、迷子の目でフォルテを見た。
「お前が忘れそうになったら、いつでも話して聞かせてやる。お前のこと、俺たちのこと、全部」
「いつでも」
「いつでも」
「全部?」
「全部」
この人は暴君だ、とシャムロックは思った。
こんなにも奥深く入ってきて、こんなにも自分の特別な存在になって、いったいどうしようというのだ。
シャムロックはうつむいて、唇をかみしめながら笑った。頭をふって、顔をあげる。そのときにはちゃんとした微笑みを浮かべていた。そう信じたい。
「ありがとうございます。私は大丈夫です」
「……おう」
信頼を滲ませてうなずくフォルテを見て、この人の前でだけは大丈夫でいよう、と思った。
もしかしたらそれは彼が望むことではないのかもしれない。ふいに、そんな考えが浮かびもしたが、見ないふりをした。彼はいつも高いところにいて、自分は彼を理解しきることはできない。それでいいのだと思った。
「ではさっそくですが、お願いできますか」
「え?」
「思い出語り」
そう言うとフォルテは、驚いた表情のまま顔を輝かせた。
「お、おお! 何にする?」
「うーん、そうですね……」
「なんでもいいぜ。なんでも、取り揃えておりますよ」
ふざけた声の調子に吹きだしてしまう。シャムロックは笑いながら、それじゃあ、とリクエストした。
「それじゃあ、かなり古いけど。見習い時代、私が熱をだした時のお話を」
「熱をだしたときー……」
「貴方が一応、看病をしてくれました」
「あ! わかったわかった。お前が食堂で盛大にひっくりかえった」
「そのあと教官の肩にかつがれて部屋に運ばれた」
「アレか。つか何だその一応って。完ぺきだっただろ、俺の愛のこもった完全看護」
「そうでしたっけ……」
フォルテは得意げに胸をそらして腕組みした。
「そうともよ、早速忘れてやがるな。じゃあ俺が教えてやろう。あれはどしゃぶりの中で剣術特訓などという酔狂なことをしでかした阿呆な騎士見習いシャムロックが―――って結構恥ずかしいな、こうやって頼まれて語るのは」
頭をかいて照れるフォルテに、シャムロックはくすくすと笑った。
いまこの奇跡の時間のあたたかさ。
シャムロックは流れてくる声を聞きながら、ねむるように、まぶたを閉じた。