白鷺 ふたりが今よりもっと幼かったころ。
高いところで交わされる大人たちの視線の網を、ふたりは寄り添って見上げていた。
気を抜けばすぐに漂流してしまう広い宮殿のなかでは、すがれるのはお互いだけで、足の林の暗がりのなかに相手を見失い、ひとり迷子になることが、小さいつがい雛にとっての一番の恐怖だった。
ふたりきりになれた時は、手をつよく握りあった。前髪が触れるほど近づいて座る。
高い窓から、清らかな光がいっぱいにさしこむ。
ふたりは白く染まる互いの瞳を見つめながら、いつまでも夢のような物語をさえずりあった。
灰色の壁にかこまれた、広い部屋の真ん中で。
「ディミニエ」
伏せていた目を上げると、すぐそばに優しい瞳があった。夏の雨にけぶった緑色。
「眠そうだな。横になるか」
「いいえ、大丈夫です。お話を聞かせて、お兄さま」
「頬が赤いぞ。また、熱がでてきたのかもしれない」
そう言って身を乗りだし、ディミニエの額に触れた兄の手は、ひんやりとしていた。心地よさにまぶたを閉じる。
「やっぱり少し熱いな。―――ディミニエ」
兄の手が離れていく。
ベッドに戻るよう促す兄の呼びかけに、ディミニエは眉を寄せて首を振った。
「お願いですお兄さま。もうすこしだけ」
「ディミニエ」
「またすぐに発ってしまわれるのでしょう? わたくし、お兄さまがお帰りになって外のことを話してくださるのを、ずっと楽しみにしてましたのよ。ねえお願い、お兄さま……」
妹の必死なお願いを聞いて、兄は困ったように微笑んだ。
「わかったよ。じゃあ、もう少しだけだぞ」
ディミニエは頬を染めて破顔した。
兄はごほん、と咳ばらいをする。そして大切な打ち明け話をするように、声を低めて話しはじめた。
彼が見てきた新しい世界の話を。
兄はいま、トライドラという街へと留学している最中だった。
優秀で、言われたことを何でも諾々とこなしてきた兄が、父王を根気強く説得して勝ち得た、2年間の自由である。
ディミニエが知る限り、それは兄の初めての我がままだった。
留学の目的は王族としての礼儀作法と最低限の剣術を学ぶこと、とされているが、そんなものが建前であることは誰の目にも明らかだった。
王子は外の世界に興味を持っているらしい。それもかなり強く。
周囲の人々は、たぶん父王も含めてだろうが、その事実に困惑した。
兄の思いを一番よく知っていたのはディミニエだけだった。
本や伝聞で得た外の知識をディミニエに熱っぽく語ったあと、決まって兄の顔に浮かぶ空しさを、ディミニエは間近で見ていたのだ。
いつか、必ず。
灰色の壁を見つめる兄の横顔からは、そんな決意が聞こえてくるようだった。
「トライドラの城は街の真ん中にあって、そこから放射状に主要な道が幾本かのびてるんだ。その道ってのが王都に比べるとやたら広くってな」
念願かなって城を飛びだした兄は、遠い街に心を置いてきたまま、夢中で話している。
ディミニエは、兄のきらきら輝く瞳を、うっとりしながら眺めていた。
「―――道端では楽師が気ままに笛を吹いたり芸をしたりしてる。それを通りかかった人たちが足を止めて聞き入るんだ」
「楽団が道で音楽会をひらいているの? いつでも?」
「いつでもじゃない。彼らの気が向いたらさ。たいてい芸人たちの前には楽器のケースや小さな箱が置いてある。歌や芸をたのしむ代わりにお金をいれてくれ、という意味なんだ」
「お金」
もちろんお金というものを、ディミニエは知っていた。市井に流通するものだ。単位はバーム。
「お金をいれたら、音楽を聞くことができるのですか?」
「いれなくてもいい」
ディミニエは首をかしげる。
「足を止めなくたっていい。音楽を聴くのもお金をいれるのも、その人の自由なんだ。
道も、どう歩いてもいい。目的なく歩いてもいいし、引き返してもいい。途中で見つけた店に、突然入ってもいい。道には色々な店が並んでて……いつも俺たちが馬車で通るような大きな通りにある立派な店ばかりじゃなくて、わき道にそれたところにも面白いものを売っているところが沢山あるんだ。すごいだろう? そういうところで、自分で買い物をするんだ。好きなものを好きなように買うことができるんだ」
「すごい」
目を輝かせていうと、兄は得意そうにうなずいた。だがふいに顔を曇らせると、言った。
「それが、普通なんだよディミニエ」
ディミニエは兄の顔を見ながら、長いまつげをまたたかせた。
普通。普通とはなんなのだろう。自分たちは普通ではないのだろうか。
確かにそうなのだろう、とディミニエは思った。自分たちは生まれながらにして特別な存在なのだ、と言い聞かされて育ってきた。
だが果たしてそれが、特別に良いという意味なのか、それとも違う意味なのか―――こうやって「普通」の世界の話を、有り難がって語っている自分たちは。
「お兄さまは、外がお好きなのですね」
「ああ」
問うまでもないことだった。
「城の中よりも?」
「……ああ」
それでは、とディミニエは続けた。
「お兄さまは外の世界に、ずっといたいとお思いですか? このまま、大切なお友達といっしょに」
兄ははっと目を見張った。ディミニエは柔らかな微笑を浮かべたまま、彼を見つめる。
兄は唇をかんで、目をそらした。
「やめよう、ディミニエ。そういう話は」
兄がそう言うので、ディミニエは口をつぐんだ。だが、いつかはもう一度話さねばならないことだと思っている。
彼の足が向かうだろう道が、ディミニエにははっきり見えていた。同じ高さの目線を持つ、ディミニエだからこそ。
「……どうした。俺の顔に、何かついているか」
ディミニエはビー玉のような緑の瞳を細めて、言った。
「お兄さまは、ご自分のことを『俺』とお呼びになりますね。昔は、『私』と仰っていたのに」
「変か」
照れたのか、少しぶっきらぼうに訊いてくる兄に、ディミニエは笑って首を振った。兄が新しく手に入れたものは、すべてが陽の匂いにつつまれていて、いとおしい。
「なんだか、お兄さまが段々と大きく広がっていかれるみたい。わたくしは、お兄さまが城に帰ってこられるたびに、いつも驚きます」
うつむき、頬をかきながら白い歯をのぞかせた兄は、ふと顔をあげると、独り言のようにつぶやいた。
「お前にも見せてやりたいな……外の世界を」
彼の目は壁をみつめている。
「……」
ディミニエは顔を伏せ、テーブルの上に乗っていた兄の右手にそっと両手をのせた。兄はそれに気づくと、左手で力強く上から握る。
ディミニエはその手の大きさ、あたたかさに胸がじわりと熱くなった。
昔は小さな手で、こうしていつも握りあっていたのだ。自分たちにはお互いしかいないのだと信じて。
今はもう、そんな幼いふたりも思い出になってしまった。大切な何もかも、過ぎ去る時のなかで古びた一枚の絵と変わっていく。きっといつかは、今この瞬間のあたたかさも―――。
ディミニエはありったけの想いを託すと、そっと手を離した。
バルコニーを出ると、白い光が全身に降りそそいできて、ディミニエは目を細めた。
兄は既に城を発っていた。よほどあの街に戻りたくて仕方がなかったのだろう、兄曰く「面倒で無駄な雑事」をすべて省いた、予定より一日早い出発だった。
豪奢な服の胸襟をゆるめ、おろおろと慌てる臣下の制止の中を足早に通りすぎる兄の姿を思い浮かべ、ディミニエは顔をほころばせた。
歩みをすすめ、外を見おろす。
昔は柵のように見えていたバルコニーの手すりも、今は腰ぐらいの高さになった。
年とともに背は伸びて、幼い頃見上げていた大人たちの視線の世界に、ディミニエも頭の先から入りつつある。毒のような香水の匂いも、自分の鼻でかぐことになるだろう。
止められない変化。仕方がないことだと、ディミニエはあきらめていた。
だが、兄ならばきっと。
そんなものすべて、灰色の壁も人々の視線も思惑も、しがらみのすべてを、飛び越えていけるだろう。
兄ならば、きっと。
ディミニエは手すりに指を乗せたまま、眼下にひろがる世界を見つめた。
誘われるように、身を乗りだす。ドレスの裾がふわりと浮いた。
手すりに腕をついて、そのままとどまる。
風を感じる。
ともすれば、この風に運ばれて、自分も遠くの空に飛んでいけるような気がした。