ガムテープ 雲も風もない、いい日だった。
街の西を流れるアルク川のほとり。
太陽は朝と昼のちょうど真ん中にあり、この時間だと街はずれのこの辺りは人もまばらだ。ゆるやかな川とともに、のどかな景色の時もゆっくりと流れていく。空からは柔らかい陽射しが降りそそぎ、春の緑にかざられた川面をゆらゆらときらめかせていた。
そんなあたたかな光を背に浴びて、大きく伸びをした猫が一匹。
くたびれた白い毛並みのその猫は、人の少ない川辺の散歩を楽しんでいた。細い尾をぴんと立てて、水面をのぞきこみながら歩く。
ふと、鼻先に何か白いものがかすめて、猫はその場に立ちどまった。そしてその白いものがやってきたほうへ、視線を向けた。
丸い目がきょろりと動く。見つけたものに興味をひかれたのだろうか。猫は足の向きを変えると、尻尾を高く立てたまま、土手の上へとのぼっていった。
薄桃色の綿が、どこまでも続いている。
川を見下ろす並木道に、アルサックの花がにぎわって咲いていた。すでに満開を過ぎ、しきりに花びらを落としはじめてはいるが、未だに枝は重たげに花をたたえている。むきだしの黒い道に光がそそぐのを遮ろうとするかのように、覆いかぶさって淡くけぶっていた。
いま、ひとりの老爺が、木の根元に小さく座って、ひとひらひとひら降ってくる花びらをじっと見つめていた。
幹に白髪頭をのせて、子供のように膝をかかえている。服の袖からのぞいた手首は、ひどく細い。
片目がつぶれているらしい彼の瞳はひとつ。そのひとつの目が空を見あげる様は、どこか茫としていた。
彼はもう60と幾つか、アルサックの季節を迎えていた。
すべての年で花を見上げた訳ではない。だがやはり多くの年は、空を奪って咲き、地に白い床をつくるこの薄い色を、どこかで目にしていたような気がしていた。
老爺は昔を思い出すように、目を閉じて首をかしげた。白いひげの後ろからのぞいた首筋にはくぼみがあった。
彼はそのまま物思いにふけるようにしていたが、ふと目をあけた。横を向く。
するとちょうど、寄りかかる木のすぐ脇を通り過ぎるところだった一匹の猫と目があった。
猫は驚いたように目を丸くして、歩みを止めた。
そのままふたりはしばらく見つめあっていたが、やがて老爺がゆっくりと腕をもちあげた。猫のからだが緊張する。
老爺の指は少しずつ少しずつ伸ばされ、そうっと近づいて、白い背中に触れた。その途端、猫は地を蹴って逃げだした。薄紅のじゅうたんを後ろ足で踏みしめながら、すぐに花びらのすだれの向こうに見えなくなってしまう。
老爺は猫の行方を目で追いかけていたが、自分の手に視線を戻した。老爺の人さし指と親指でつまんだ先には、一枚の花びらが残されていた。
じっと見つめる。そして、ふたたび首をかしげた。
(自分はかつて、この花をどんな風に見ていたのだったか……)
老爺は、思い出せないでいた。
10年以上も前のことだ。
彼には、ずっと探していたものがあった。
―――感情。
それは世界を彩る源。世界の色だった。
彼はそれまで、瞳に色を映すことができないでいた。映るものは物の輪郭のみ。見るもの見るものすべてが味気なく、何かに心を動かされるということが、およそなかった。彼にとって世界は、無色透明で淡白な事実の集まりでしかなかった。
彼は、世界に色を見出し、心にそれを焼きつけることのできる人をうらやんだ。
そして自分も色を手に入れたいと願い、求め続けた。
長い時間がたち―――とうとう、彼の願いはかなった。彼の心には色が宿り、喜びや悲しみや切なさを、理解できるようになった。ある寒い冬の日のことだった。
だがその日を境に、今度は彼の世界からは形が失われていった。
老爺は手にした花びらをはなした。白い一枚が、ひらひらと膝のうえに落ちる。
曲げていた足を伸ばし、幹につけた頭をずり落として、空をあおぎみた。ほのかに色づいた、白い天井が広がっている。
(……むかしの自分の目には、どのように見えていたのだろう)
欠片が、老爺の肩に足に落ちてくる。
(単なる花びら一枚一枚の集合だと、とらえただろうか)
あるいは、あの淡い色の後ろにある何か別の真実を、見通したかもしれない。いまの自分には、うかがいしれぬことだった。
昔の彼の目は、ものの輪郭をただしく見ることができた。ありのままの姿を、何かをまじえることなくとらえることができた。
あの日手に入れた色が、その透明な瞳をぼやけさせていったのだ。喜び、悲しみ、後悔……それらは薄い膜となって、彼の視界を遮った。はがそうとしても張りついて、膜は二度とはがれようとしなかった。
そしてそのうち色の膜は、目だけではなく耳や口をも覆うようになった。口に張りついて内からの言葉を、耳に張りついて外からの音を、くぐもったものにしていった。
彼は五感のすべてを歪められて、それまでのようにはまっすぐ歩くことができなくなった。彼は困惑し、立ち尽くした。
だがそれでも、彼は色を手に入れたことを後悔することはなかった。
老爺は空を見あげつづけていた。視界一面に、薄い色がひろがっている。
(何かに、似ている……気がする)
老爺の体に、いっそう花は降りそそぐ。彼のまわりの地面は、すっかり薄桃に埋めつくされていた。くるくるとまわりながら落ちてきたひとつぶが頬に触れ、老爺は目を細めた。
(まるで雲に覆われた空から雪が……降ってきているような……)
すがめた視線のさきで空が白くかすみ、眩しくなっていく。耳の奥では、吹雪の音が高く低くひびいた。
渦をまき、ゆれて、舞い落ちてくる。ときにははげしく、ときには天にのぼるように。
老人の瞳にまたひとつの感情が浮かび、膜となって彼を覆った。
白い光にむかって、震える手を差しのべる。何かをつかむように、手のひらを大きくひろげた。
(古き友よ……俺はお前に伝えたい。いま、この目に映る景色を。
つまらぬ硝子のようなこの世界も、色をつけることでこんなにも、美しく見えるのだということを。
たとえそれが、情にかすんだ目が見たひとりよがりな幻なのだとしても……ひとつの可能性の存在が、お前を雪のなかから救うことが……できるのなら…………)
彼は心のなかで語りつづける。
そうすることであのさびしい友に自分の言葉が伝わるかもしれないと、信じているかのように。
だが、のばしたその手がとられることはない。
彼の友人は、遠いところにいた。老爺が近づいてはいけないほどに、遠い遠い場所に。
彼はもう、かつてのようには、友人の横を歩くことはできなかった。それをするには、彼の手足は重たすぎたのだ。
「色」とは違う戒めが、彼の手首足首を縛っている。それは春が訪れるたびに、少しずつ巻きついていったものだった。木の年輪のように、幾重にもかさなっていく枷。目や耳にうつる世界に彼が気をとられているうちに、気配をけして忍びより、彼を拘束していったのだ。
老爺の空にのばされた手は、だんだんと重力にしたがって落ちていった。
逆らおうとして力をこめても腕はさがりつづけ、やがて肘が地面についた。天を向いていた指先も花が枯れるようにたれさがっていき、最後に落ちた。
老爺は目を閉じ、こうべをたれた。背から力を抜いて、小さく丸める。深くくぼんだ目のまわりの影が、いっそう濃くなった。
うつむいた老爺の表情はいつしか、元のように茫としたものに戻っていた。白髪頭がこくりこくりと揺れている。
どこからか戻ってきた猫が、老人の横に足を止めた。きょろりとした丸い目で、そうっと顔をのぞきこむ。
しかし、やすらかに眠る彼のまぶたは、ひらかれることはなかった。
音もなく、花びらは降りつもっていく。
木の根元に座るうなだれた小さな囚人を、彼が美しいと思った色で覆い隠していくように。