電光掲示板 レナードは体をふたつに折って、前のめりに歩いた。手で壁を探り、今にも倒れそうになるのを何とか持ちこたえる。
「キール、キールどこだ!」
暗い視界に向かって叫んだ。だが、その己の声すらよく聞き取れない。耳がいかれていた。
「くそ」、と舌打ちしながら耳をこする。目をこらして再び怒鳴る。声帯が震えた。
「キール、ハヤト! いないのか」
片手にぶら下がっているのは愛用の銃。撃鉄はすでに起こしていた。
*
「よし、と」
黒髪の少年がようやく足を止めた。
ゆっくりと顔をめぐらせ、何度か頷くと、もう一度確かめるようにつぶやく。
「これで、よし」
煙草のけむりを唇の端から吐きながら、レナードはにやりと笑った。
「ごくろうさん」
振り返った少年と目が合う。少年―――というには失礼だろうか。彼の年はもう春から夏にさしかかっている。男と呼んでいい。
彼はその若々しい面にはにかんだ微笑みを浮かべると、視線を落とした。レナードもつられて、足元を見た。
巨大な円陣が、白い石床に描かれている。
ちょうど昔よくあった映画やなんかの、悪魔を呼ぶシーンに出てくるあれだ。
実際、このピラミッドを横に切りとったような形の祭壇は、もともとは「魔王」を呼ぶために作られたものだと聞く。その経歴には説得力があった。
三日三晩かけて練られたという黒い顔料で、意味のわからない図形やら文字やらが、丸の中にびっしりと書き込まれている。風が吹くたびに、昼間にも関わらず煌々とたかれている幾つもの篝火が、円陣の上にオレンジ色を揺らめかせた。
頭上に黒い雲が広がるこの陰気な天気といい、雰囲気がでている。本当に異世界に通じていそうだ。
「いや実際、通じてんのか……」
レナードは黒い曲線をつま先で蹴った。乾いているので掠れはしない。
これに乗っかって呪文を唱えたら異世界と行き来できるんです―――だなんて、まるでいかれたカルトのようだとレナードは思った。
祭壇の下には、信者よろしく仲間達が不安そうな顔でこれから行われる儀式を見守っている。
刑事だった頃の自分がこんな場面に遭遇したら、間違いなく深刻な顔をしながら職質かけていただろう。レナードは何だか可笑しくなった。
「たまんねぇよな」
レナードはこみあげてくる笑いを噛み潰しながら言った。
「なんかもう、笑うしかねえ気分だ。ああ、お前さんの術を馬鹿にしてる訳じゃなくてな」
「わかります」
黒髪の少年―――ハヤトは息を吐くように笑って、頷いた。
「これで帰るのかと思うと、俺だって」
そう言うと、ハヤトは空を見上げた。言葉で言い尽くせないものがあるのは、彼も同じだ。
雲に覆われた空はどんどん暗くなっている。ひと雨降りそうだった。そろそろ発った方がいいだろう。名残は尽きないが。
黒い雲がくぐもった低い音で鳴った。レナードは煙草を持った手を持ち上げて、言った。
「お前さん、帰ったらまず何をする」
ハヤトは首をかしげた。
「何……をしようか。全然考えてなかったな。ソバとかみそ汁とか納豆とか、とにかく和食を食べたいとは思ってたけど、真っ先にすることかあ……レナードさんは?」
レナードは落とした煙草を踏み消すと、口の端を上げて笑った。
「酒に煙草だな。それから」
「それから?」
「電話をする」
「誰に」
「時報局」
何月、何日、何時何分何十秒―――。
刻まれる針の音を受話器の向こう側から耳に囁いてもらおうと思う。そうすれば実感できる。失われた時間が、自分のもとへ戻ってきたことを。
「失った、っていう表現は正確じゃねえか……」
ひとりごちて顔を上げると、ハヤトが不思議そうな顔をしてこちらを見つめていた。
レナードは苦笑して、あごをしゃくった。ハヤトが振り向くと、そこには背の高い少年の姿があった。
「キール」
「ハヤト。……もうそろそろ、行こう」
キールと呼ばれた彼が低く静かに喋る。ハヤトは頷くと、体を斜めに傾けて、歩いてきたキールを通した。キールはレナードの側に立ち止まる。
「レナードさん。よろしくお願いします」
そう言って頭を下げた彼の髪を、レナードはくしゃりと撫でた。
「ああ。こっちこそよろしくな、キール。ロスの空気は汚ねぇが、慣れちまうと悪かないぜ」
これから戻る世界では、キールはしばらくの間レナードと共にロサンゼルスで住む予定になっていた。
しばらくの間……そう、ハヤトが成長して社会に出るようになり、キールがあちらの世界に慣れて根をつけるようになるまで、だ。そんなに長い期間ではない。
だが、頭を上げたキールの表情は強張っていた。
(不安か?)
聞くまでもないことだ。そして、聞いても仕方のないことだ。これは彼が決めた選択だ。生まれ故郷を捨て、友が帰る世界へ自分もついていくという人生を駆けた選択。
レナードにできるのは、黙ったまま彼の肩を抱き寄せることだけだ。
彼は白いシャツと黒のボトムを身につけていた。レナード達の世界の若者が着ていてもおかしくない服装を、リプレがこしらえてくれたのだ。
「さて、ハヤト。後はお前さんが術を発動させるだけなんだな。よろしく頼むぜ」
「はい」
「緊張してるか?」
「少し。でも、失敗はしません。これで本当に、最後だから」
わずかに顔を強張らせたハヤトに、レナードは肩をすくめて笑った。
「おいおい、気ぃはるなよ。いつも通り、リラックスしてやりゃあいいんだ。な、キール」
隣にある細い背を叩くと、キールがびっくりしたように顔を上下に振る。それを見てハヤトの表情はゆるめられた。
「はは、そうだよな。下でみんなも見守ってくれてるし、きっとうまくいくよな……」
ハヤトは大きく息を吸った。
下から、ハヤト、と呼ぶ声が口々に聞こえてくる。キール、という声も。
隣に立つ少年が俯いた。長めの髪のなかから、首筋がのぞいた。
ハヤトはたくさんの声に耳を傾けながらきつく目を閉じていたが、やがて口をひらき、きっぱりと言った。
「行こう。俺たちの故郷―――名もなき世界へ」
円陣の中央に立って、レナードたちとハヤトは向かい合う。呪文の詠唱はハヤトが担う。
目を閉じて自分には分からない長い文句を口の中で唱えるハヤトを眺めながら、レナードは手のひらの中の肩が緊張しているのに気づいた。隣の少年を見ると、視線を感じたのか少年もこちらを見上げてくる。
目を細めて肩をやさしく叩くと、それでキールは強張りを解いて、わずかに体重を預けてきた。それでいい、とレナードは心のなかで語りかける。これからしばらくの間、自分たちは共に住むのだ。父ひとり、子ひとりの親子のように。
足元の円陣が燐光を放ちはじめた。ため息とともに、ハヤトが告げた。
「詠唱が終わりました。術が発動します」
心なしか、ハヤトの顔は憔悴しているように見える。下から照らしてくる青白い光のせいだろうか。
キールがハヤトの方に一歩踏み出そうとするのを、レナードは肩をひいて止めた。弾かれるようにあおぎみる視線に応えず、まっすぐ前を見ながらレナードは言う。
「大丈夫だな、ハヤト」
「……はい」
「俺が絶対お前たちを会わせてやる。辛抱するんだ、ふたりとも」
少年たちは応えない。キールが食い入るように友の顔を見ている。
光はどんどん強くなり、すぐ目の前のハヤトの姿をかすめるまでになっていった。白い幕が、自分たちとハヤトを隔てていく。手のひらから不安が伝わってきた。
「ハヤト?」
「……キール」
ふたりの声が交わされる。不吉な予感がした。
レナードはいつになく苛立つ。別れを言うんだ、キール。
「ハヤト、僕は君を」
金属が削れるような音が響き、キールの声がさえぎられた。体が突然、重力から解き放たれて軽くなる。レナードは顔をしかめながら、目をこらした。
視界を埋め尽くす白い光の中から、差しのばされる手のひらが見えた。レナードは少年の肩を強く抱く。叫び。爆発音―――。
*
震える手を口にあてた。喉まで熱いものがせり上がってくる。耐えきれず吐いた。粟立つ視界はぐらぐらとまわり、地面が揺れているのか自分が揺れているのか分からない。ひどい気分だった。
さっきまで確かに、この手にあの少年の肩を抱いていた筈だった。だが、眼球が引っくり返ったかのような衝撃のあと、気づけば闇の中でレナードはひとりだった。
自分は手を放してしまったのか? それとも、キールが離れたのか。
(友の腕をとったか、キール―――)
「ちぃ」
こぶしで口をぬぐい、顔をあげる。無理やりにでも体を起こす。もう一度、人影を探すように辺りを見回した。
そこでふと気づく。―――ところで、ここはいったいどこなんだ?
聴覚の戻ってきた耳に少しずつ喧騒の気配が伝わってくる。
壁づたいに2・3歩あるくと、突如行く手が眩しく光った。咄嗟に目をかばうレナードの上を、なめるように照らしていく。
光が通り過ぎたあと、レナードはここがトンネル状の空間だということに気づいた。
手をついている冷たい壁を見る。闇に慣れてきた目がとらえたのは、間違いない、灰色のコンクリートだ。描かれているのは色とりどりのストリートアート。スラングの数々。
レナードはよろめきながら足を速めた。低く規則的なビートが段々と響いてくる。苛立ちを含んだクラクションの合唱。笑い声。
いつの間にかレナードは駆けだしていた。半円の出口が揺れながら近づいてくる。3歩、2歩、1歩―――。
「……っ!」
その瞬間、レナードの足は止まった。周囲から音が消える。
圧倒的な夜。
幾万の熱のこもった灯りが、取り囲むように彼を見下ろしていた。
一瞬、自分と光を残して地面がなくなってしまったたかのような錯覚に陥る。膝がゆっくりと折れていった。
直後、耳にクラクションが響いて我に返った。耳に音が戻ってきた。機械的な音楽が体の奥まで支配しようと心臓に響きわたり、空を見上げたまま立ち尽くす男の意識を殴った。
クラクションはパァー、と長い尾をひきながら、光るふたつの目とともにレナードの前をカーブしていく。二歩、後ろに下がる。
それについで早足で歩く人々が目の前を横切っていく。ミニ・スカートの女たちの嬌声がひびいた。
頭の後ろから、列車が通る振動が伝わってきた。顔をめぐらせると、ボードを操る若い男や逆立ちして踊る黒人の姿が見えた。誰とも目が合うことはない。
風が吹き、足に何かがばさりとまとわりついたのに気づいて、レナードは視線を下ろした。新聞紙だった。
拾い上げようとしてレナードは、ずっと右手に持っていた拳銃の存在に気づく。目の前に持ち上げて見つめると、拳銃を持った手は細かく震えていた。
獲物を懐にしまい、新聞紙を拾いあげてみる。
そう古いものではないらしい。鼻先に近づけて目を通すと、英語の文字がびっちりと敷き詰められており、政治家の汚職事件が顔写真つきででかでかと載っていた。
日付に視線をずらすと、それはレナードがこの世界を去った、その日のものだった。
(戻った……)
力の抜けた手が落とした紙は、ふたたび風に吹かれて地面を這っていく。
体の震えは止まっていた。
顔を上げると、ネオン群のなかの、ひとつの大きな黒い窓に目が留まった。
窓の右からは、オレンジ色の文字が流れてくる。W・E・L―――。
『Welcome!』
全部揃うと文字はちかちかと点滅する。
両手を広げてけたたましい笑い声をたてているかのようなそれを眺めながら、レナードはつぶやいた。
「ただいま……」
音と熱の奔流が男を飲み込んでいく。街角に現れた一片はビルの群れに埋もれて、消えた。
そして夜空の下の溶鉱炉は、一層不穏に渦巻きながら輝く。波打つのは粒子。
ギガの光がまたたく街、ロサンゼルス―――。