鍵穴 ウィゼルには、じっと相手の眼を見る癖があった。
昔つぶれてしまった右目を固く閉じ、ひとつまなこで凝視する。端からはまるで、目を眇めて小さな穴をのぞき込んでいるようにも見える。
のぞきこまれた穴は大抵逃げた。ウィゼルの視線は居心地が悪い。
ウィゼルのそれは単なる癖で、特に意図がある訳でもなかったが、透明であたたかみのない瞳に見つめられると多くの者は、この鍛冶匠は自分の心を見透かしているのではないかと、つい怖じけてしまうのだ。
だが時には、のぞきこまれて逃げない穴もあった。
ウィゼルの雇い主などがそうだ。その男はじっと注がれる視線に気づくと、決して目を逸らさずに、ウィゼルを睨み返してくるのだ。
ふたりは一歩をへだてて見つめあう。
それを終わらせるのはいつもウィゼルの方で、目の表面が乾いたのを機に、ついと視線をはずす。
すると男はようやく強ばりをとき、またどこか得意そうな顔をして、こう問うてくるのだ。
「何が見えた」
と。ウィゼルは決まってその問いに、
「何も」
と答えた。
素っ気ないところを気に入っているようだ。男は目を細め、口の片端をあげて笑う。
「愛想のない奴よ」
だがウィゼルにとっては愛想もなにもない、ただ事実を答えたまでだ。自分は本当に、何も見えてはいなかった。
ウィゼルが相手の目をじっと見て分かったのはただ、男の瞳が烏よりも黒いこと、そしてその向こう側に何か大きなものの気配があるということ、そのふたつのみだった。その「何か大きなもの」が何なのかは分からない。
「ウィゼル」
夕刻。
街の向こうに沈んでいく太陽に手を伸べて、男は言った。
ウィゼルは男の横で、紺色の空に浮かぶくれないの雲を眺めている。
「ウィゼル、お前にも見えるだろう。この世界の歪み。
怒り、憎しみ、嘆き……ありとあらゆる負の感情が、この世界に満ちている。世界を汚している」
「……」
分からない。
ウィゼルは他人の情を解さない。ウィゼルには、感情と呼ばれるものがない。修練によって抑えているのではなく、生まれついて欠けていた。
(自分はどうやら、他の人間たちとは違うらしい)
気づいたのは、山から下り、人と交わるようになってからのことだった。
自分は彼らと姿はそっくりだ。
言葉も同じ。同じものを見、聞き、食らう。
だが、何かが違う。目に見えないところで、自分には足りないものがある。
彼らと会話し、酒を酌み交わすたびに、違和感は大きくなっていった。
目の前でいつも誰かが笑い、泣いている。ウィゼルはそれを見て気づく―――ああ、俺にはあれがない。
この胸のうちには埋められない穴があいていて、だから自分はいつの間にか人の輪から隔てられているのだろう。角の欠けた鬼が、群れから浮いてひとりぼっちになるように。
「これらを発しているのは、小さき者たちだ。不完全な秩序に寄生し、内側から支えている。自分が守っているその秩序こそが己を苦しめているのだと気づくこともなく、もがきながら短い生を終える。罪深く、愚かな存在よ」
まだ若い男は低く静かに、弾劾の言葉を口にする。空を映しつづけるウィゼルの瞳の底辺で、建物の群れがじわりと影を深くした。
男が蔑むそんな小さき者たちすら持っているという。
この世界で、自分の立つ側だけが完全な無色。男が罪と名づけたものに、汚されることもない。
陽の光に赤にも白にも染まる彼らと彼らの世界を、自分はただ遠巻きに見ているしかないのだ。
ひどい疎外感だった。
「奴らには歪みに気づく知能も、歪みをただす力もないのだ。
だが私は違う。私には力がある。選ばれた、強き魂が集うはずのこの地が、欠陥をかかえたまま汚れて朽ちていくのを、黙って見過ごしはせぬ」
男は振り向き、赤い日の最後の一閃を背負いながら、言った。
「私が世界を浄化しよう。力を貸せ、竜よ」
激しい何かがうずまく瞳を、ウィゼルは熱のない視線でじっとのぞきこんだ。
冷えた空が暮れていく。
この片目の鍛冶匠が、誰よりも罪をかかえる男のそばに立とうと決めた、ある冬の日のことだった。