クレヨン「おそら、おはな、もり、き……」
午後の目映い光の中、歌うような幼女の高い声がする。
「はっぱ、くも、あめる……」
ひとりの男が、ゆり椅子に深く腰かけながら、その声を心地よさ気に聞いていた。
床にぺたんと座っていた少女が歌をやめ、ふりかえった。
「おじーちゃん」
云って、画用紙を得意げに男の前に掲げる。
「おお、どうしたアメル……ん、これは何じゃ」
「おじーちゃん」
「おお、おお、そうか。これはワシか。よく描けている。絵がうまいな、アメルは……」
にぃ、と笑うと、少女は再び床に紙をおいて向きなおった。
男はよいしょと腰を上げ、小さな頭の後ろから顔をのぞきこませた。ロウの匂いが鼻をかすめる。懸命に動かされる手元からのぼる、クレヨンの匂いだ。
思い返せば、この子を拾ってからというもの、今まで知ることのなかった子供の匂いを数多く嗅いでいる。ミルクの匂いや、おしめの匂い、鉛筆の匂い……。どれも、微笑ましいものだ。目のまわる忙しさに、その時々は感慨にふけることなどなかったが、思い出に変われば全てがいとおしい。今まで自分がなじんでいた鉄さびの匂いに比べると、なんと幸福に満ちているか―――。
(いかん)
男は目を瞑った。
これは禁忌だ。この村での自分にとって、過去の自分こそが最大の禁忌だ。
男は、再び子供の絵を眺めた。
青い空と緑の森を背景に、子供とひげを生やした男が大きな目と口で笑っている。両腕は空にむかって伸ばされ、足元には花が咲いている。まるで憂いの存在しない、鮮やかな世界だ。
クレヨンの線は紙から元気よくはみだし、床まで伸びている。大きく枝を広げた木を描いているらしい。
これは掃除が大変だ、と心の中で苦笑する。そして同時に思う。
―――今は、この風景の中にあるものこそが自分なのだ、と。
「おじーちゃん」
大きな瞳が見あげてくる。
「ん? どうした、アメル」
「おじーちゃんも、何か描いて」
「ワシか? ワシは、いいよ。絵は、アメルにかなわん。せっかくのアメルの絵が、台無しになってしまうぞ」
「いいの、描いて、描いて」
「そうか。仕方ないな、何を描く?」
「おひさま」
それならワシにも描けるな、と男は笑う。
白い1本を手に取る。
「ちがうよ、おじーちゃん。おひさまは、黄色」
「そうか」
「そう、黄色」
―――違う。
唐突に声が響いた。
―――あの太陽は、白かった……。
雲の合間から射しこむ、白い光。
それがさんさんと雪原にふりそそぎ、反射して目映い。
息をはけば口からもやが立ちのぼって、薄い空に消える。見あげると、凍えた花びらが幾つも幾つも落ちてくる。この極寒の世界に歓ぶように、ひどく、ゆっくりと―――。
クレヨンを握ったまま動かない男を、少女はせかした。
「どうしたの」
「ああ、なんでもない、アメル」
鮮やかな青の左上に、黄色い円を描く。丁寧に、丸く、塗りつぶす。
塗りながら、男は思った。
―――或いは、白い太陽のもとでも、このような情景が有り得ただろうか。
赤い髪の少年、あの子に剣ではなくクレヨンをもたせて。白いおひさまを描いておくれとせがまれる、そんな温かな情景が。
肩越しに、ほほえむ懐かしい友の姿を見ることもできたのだろうか―――。
「おじーちゃん……?」
クレヨンを握ったまま目をきつく瞑る男に、少女は声をかける。
「ああ、大丈夫だよアメル……」
そう云いながら男は、決して目を開けようとはしなかった。