通勤電車 アカネは木の影で息をひそめて、時機をうかがっていた。
闇に溶けこむ姿のなかで、赤い瞳だけがふたつ、ぎょろりと光っている。
片膝をついて身をかがめた彼女の手のひらは、地面に置かれていた。大地の変化を知るためだ。
(来るぞ)
アカネは下唇を舐める。
しばしして、ごごご、という低い音が遠くから響いてきた。はるか右の方から、黒い大きな影があらわれる。
列車だ。
先頭で動いて見えるのは、車両を引っ張っている召喚獣だ。近づいてくるに従って、それがひづめと角をもった巨大な獣であると分かる。
アカネは列車が目の前のレールを横切るまであと数瞬、という時点に至って、木陰から飛びだした。
体を低くして、物凄い速さで駆けぬける。
「ハッ」
アカネは助走をゆるめないまま、鋭い気合の声とともに高く跳んだ。
月夜の空を背景に、赤い忍装束をまとった細身の体が宙を舞う。
ゆっくりと回転するアカネの下を、列車が豪速で駆け抜けていった。車輪がレールとこすれ、激しい音をたてている。
木の葉が舞い落ちる速度で、アカネは列車の屋根に降りたった。着地のときにバランスを崩しかけたが、手をばたつかせて何とかもった。
「ふぅーっ、乗車成功」
大きな溜息をついてニカッと笑うと、アカネは丸い屋根にまたがるように座りなおした。
召喚獣鉄道。
金の派閥が投資し、建設したこの鉄道は、名前があらわす通り召喚獣を利用して動く列車だ。街をつなぐ線路に沿って、人や荷の乗った車両を、巨大召喚獣が引いて走る。
シンプルではあるが画期的な発想で一時期話題になったこの鉄道、しかし今のところ利用者はほとんどいない。運賃がとんでもなく高いのだ。
利用者が少ないから値段が高いのか、値段が高いから利用者が少ないのか。
その答えは分からないが、ともかく庶民が気軽に使えるものではないことだけは確かだった。現在使用しているのはもっぱら、これを敷設した金の派閥の面々だけだ。
アカネはこの鉄道の話を聞いたとき、鼻で笑った。
「ばっかみたいな話だね。大枚はたいて、あの程度の速さだってさ。あんなの、自分で走ってるのと全然変わんないじゃん」
シノビの台詞である。かつてそれを聞いた誓約者の少年は、胸をはって反りかえる彼女の前で、力なく笑ったものだった。
「あんなうるさいだけのデカブツに乗る奴の気が知れないよ。アタシ? もちろん興味ないよ、全然。あんなのに乗りたいなんて、これっぽっちも思ってないもんね―――」
ノリで大見得きってしまった手前、今更誰にも言うことはできない。実は内心、アカネはこの鉄道に興味深々であった。
理由は、このくのいちが大の珍しいもの好きであったことがひとつ。
そして、自分の足で走るより遥かにラクチンそうだったことがひとつ。
「いやー、だって考えてみると自分で走ったらメチャクチャ疲れるもんね! その点こっちはいいよ、足使わないんだもん」
アカネは辺りを見渡した。鼻に勢いよく入ってくる冷たい夜気が気持ちいい。視界は一面真っ暗で、街の灯は見えない。今日は中々の遠出をした。
これも仲間に頼まれたお使いのためだ。自分は快く引き受けた。だから別に散々走って疲れたからといって、嫌なことは何もない。
だがやはり、疲れないで済むならそれに越したことはない。
「しかもこうすればタダノリだし。あったまいいなあアタシ。おまけに貸切だってさ、気分最高ー」
「こんばんは」
突然かけられた声に、アカネはギョッとして辺りを見回した。
そして自分の座っている車両のひとつ前に黒い人影を認めて、もう一度心臓を跳ね上がらせた。
「おししょーっ!」
「大声を出すものではありませんよ、アカネさん。こんな夜更けに」
アカネはしばし呆然としていたが、頭を勢いよく振ると、ゴトゴトと揺れる屋根の上を這うようにしながら、黒い忍装束の後姿に恐る恐る近づいていった。
「お、お師匠……何でここに」
本当なら、ゼラムにいる筈のお師匠だ。
彼―――シオンは現在、主君と認めた少女のために、シノビとしての力を尽くしている最中だった。その拠点はもっぱら、主のいるゼラムの街だ。サイジェントにとどまっているアカネとは、普段は別々に暮らしている。
それがまさかこんなところで再会しようとは、夢にも思わなかった。
正座をし、緊張しながら問いかけると、腕組みをして胡坐をかいている背中から声がかえってきた。
「別に大した理由はありませんよ。急な用事ができたのでサイジェントに向かっていたところ、途中でふと弟子らしき後姿を見かけたので、声をかけてみた、というだけのことです」
「あ、ああ、なるほどー……。あんまビックリさせないでよお師匠」
てっきり、何だかよく分からないが監視でもされていたのかと思った。
ほっと胸を撫で下ろすアカネに、シオンは穏やかな声音を変えずに言う。
「私も驚かされましたよ。物騒な仕事でもしている最中なのかと思ったら、そうでもなさそうですし」
「いやあ、今日はおつ」
「『おつかいは修行のひとつ』、と日頃口を酸っぱくして言い聞かせていた弟子が、よもや何かのお使い中にこんなところでのうのうとくつろいでいる筈はない―――でしょうしね。いったい何をやっているのだろうか、と」
アカネは冷や汗をぬぐった。
「ああ、そのぉ……これも何ていうか、修行の一環として」
「そうでしょうとも。アカネさんにはアカネさんの考えがあってのことでしょう」
肩越しにはじめて振り向いた師匠の目を、アカネは見ることができなかった。
「で、でもお師匠、それだったらどうしてアタシよりも前に乗ってるのさ」
自分の姿を見かけてから走りだして、列車より先回りして飛び乗るなんて、いくらなんでも不可能だ。
「さてはお師匠、アタシよりも先に乗ってたんだ。そうでしょ!」
「さて、ね」
勢いよく尋ねたアカネの言葉を、シオンはさらりと流した。
どこまでも飄々とした師匠の背中を、アカネはじと目で睨む。相変わらず食えない人である。
「まあ、新しいものや見知らぬものに触れてみるのはいいことです。豊富な知識や経験は、いざという時の助けとなりますからね」
「そ、そーですよね! アタシもそう思ったんですよ、あは、あはは」
「……」
相手の無言に何かを感じたのか、アカネは空しく響く笑いを引っ込めた。
「ゴメンナサイ」
二本の襟巻きが、ばたばたと風になびいている。
真っ黒だった空の闇は少しだけ薄まり、綺麗な紺色になっていた。
左右に時折見える黒々とした樹や雲の輪郭は、列車の速さに従って勢いよく後ろに流れていく。前方に広がる大きな山の姿だけが、ゆっくりと一歩ずつ近づいてくるようだった。
「すっごいですよねえ。自分の足が全然動いてないのに、景色だけいつもと同じ速さで通り過ぎていくんだから」
前髪をなびかせながら辺りを眺めていたアカネが、しみじみ感心したように言うと、前からくすりと笑う声がした。
「何で笑うのよぉ、お師匠」
「いいえ?」
そう答えたシオンの声には、ほんの少し笑みの気配が漂っている。
眉をひそめて腑に落ちない表情をしていたアカネは、理由を追求するのは諦めて、自分が座っている鉄の屋根を拳でこづいた。
「でも、ちょっと腹立つかも。シノビじゃない普通の人でも、こんなはやく色々なところに行けたりしたら、そのうちシノビにお使いとか伝令頼む人なんかいなくなっちゃうじゃん」
「……」
相手から返事がかえってこないのをみて、アカネは慌てて付け加えた。
「ま、シノビに頼んだ方が確実だし、安全だし。シノビがいらなくなることなんて、ないと思うけどさ」
「そうとは限りませんよ」
「へ?」
「すべては時代の流れです。新しく、より優れたものに先を越されればそれまで。時代についていけなくなったものは、不要となる。
そして不要な道具は、うち捨てられるだけです。シノビとて道具である以上、例外ではありませんよ」
アカネは目を丸くした。
「んな……お師匠、それ本心で言ってんの」
「ええ」
「今、こんなに役に立ってんのに? いつか、今まで頑張って修行したのが全部無駄になって、シノビがお払い箱になるっての?」
「頑張る頑張らないは重要ではありませんよ、アカネ。どんなに努力しようが、むかしは活躍していようが、いま役立たずならそれはただのゴミでしかないのです」
容赦のない言葉に、アカネは黙った。
これは普段あまり教えを説かない師の説法なのだろう。そう悟ったアカネは珍しく神妙な顔つきをして、風の音にかき消されそうなシオンの静かな声を聞いた。
「捨てられたくなければ、常に流れを見失わないことですよ。どの方向に世界が向かっているのかを知り、速さでそれを凌駕すること」
「……はい」
「そしてそのために、己を高めることを忘れぬこと……わかりますか、アカネさん?」
「はいっ」
アカネは元気よく返事をした。よく分からないが、何となくためになった気がした。
「では、こんなところで休んでいる暇はありませんね」
クナイが3本、師匠の背中から飛んできた。
「うわあっ!」
咄嗟に後ろに跳んで避けると、今まで座っていた鉄の屋根に火花が散った。抗議する間もなく、飛んできた別のクナイがアカネの頬をかすめた。
たまらず横に大きく跳び、投げ出されるように地面に着地するや否や、アカネは顔をあげて叫んだ。
「何すんのよ、おししょーっ」
だが、既に列車は最後尾をアカネに見せつつ、走り去っていくところだった。腕を振りあげてなおも叫ぼうとする大きな口に、風に吹かれた砂埃が入ってきて、アカネはゴホゴホと盛大に咳きこんだ。
「ちっくしょう……つまりは楽してないで走れってことだろ? 小難しい説教垂れないで、そうならそうと言えばいいじゃないか、お師匠の陰険!」
列車はごとごとと揺れている。
長い髪を風にはためかせているシオンは、はるか後方から聞こえる抗議の叫びを耳に入れながら、くすりと笑みを漏らした。
―――自分の足が全然動いてないのに、景色だけいつもと同じ速さで通り過ぎていくんだから―――。
「同じ速さで……ですか」
シオンは、先の弟子の言葉を思い出しながら、つぶやいた。
「まだまだですね、アカネさん」
いつもは笑みの形に細められている目が、突如、開いた。
シオンの姿が、座っていた場所から残像をのこして消える。
次の瞬間、列車のすぐ横を身を低めて走る影があった。車輪と並んで地を蹴る足は、目でとらえられないほどに速い。
(凌駕せよ)
襟巻きが大きく翻ると同時に、影の速さが増した。列車を追い越し、鼻息荒い召喚獣を背に、大地を滑るように駆けていく。
荒野を疾走する三つの点。
徐々に距離をあけながら西へと向かう彼らを後ろから追うように、東の山あいからのぼった朝日が、荒野を赤く照らしはじめた。