ベンディングマシーン なだらかにくだる草むらを見下ろして、彼らは立っていた。
陽にあたためられた風が通り過ぎる。先頭に立つハイネルの、ひとつに束ねた長い髪が揺れて、日に焼けいてない白いうなじが時折のぞく。
アルディラは、体の脇に下げた大きなカバンを撫でながら、その首筋をなんとなしに眺めていた。
「望遠鏡を」
背を向けたまま短く呟かれたハイネルの声に、アルディラは即座にこたえた。
小型の望遠鏡をカバンから出し、差し伸ばされた手のひらにのせる。
「ありがとう」
アルディラは嬉しそうにはにかむ。
ハイネルは片目をつむって筒を覗き、焦点をあわせながらじっと遠くを見据えた。そして、
「あの子だ」
とつぶやいた。アルディラも、その方に目を向ける。
彼らが見つめる先には、赤褐色の狼のような獣の姿があった。その獣は、草むらの中でよろめきながら歩いている。
望遠鏡をのぞいていないアルディラにも、そのぎこちない動きから正常の状態ではないことが見てとれた。
「首輪がついてる。たぶん、昨日研究所から逃げだした召喚獣に間違いないだろう」
「まだガキだ」
背後から、ぼそりと低い声がした。
「ヤッファ」
アルディラが振り向くと、離れたところに腕組みをして立っていたその男は、ふん、と鼻を鳴らした。
彼は白トラの毛並みを持った亜人だ。アルディラと同じく、ハイネルに仕える護衛獣である。
だが、役目に対する姿勢はアルディラと正反対だった。いつもやる気なさげなヤッファのことを、アルディラはあまり快く思っていない。
今もこの男はあくびをしながら、片足をだらしなくぶらつかせていた。
「成獣はあの倍はでかい。4本足だが頭のいい、誇り高い種族だ」
気の抜けた表情から放たれる声は、存外真剣だ。彼は怒っている。メイトルパの同胞に対して行われた仕打ちに。
「……」
非難のこもったヤッファの言葉に神妙な顔をしながら、ハイネルは無言で望遠鏡をのぞいていたが、やがて一言呟いた。
「……遠いな」
「ふん。どうやって捕まえるつもりだい。側に寄ったら逃げられるぜ」
「何とかしてこちらに呼べないか、ヤッファ」
「メイトルパの獣に、フバースの鳴き声で近づいてくる間抜けはいねえよ」
「麻酔銃……は痛そうだしね。餌でおびき寄せるか」
「無駄だって」
「試してみよう。アルディラ」
「はい」
主人の提案にどこまでも否定的な同僚の態度に苛々していたアルディラは、ハイネルの言葉に慌ててカバンを探った。すぐさま細長い密封容器に入った骨付き肉を取りだした。
「用意いいな姉ちゃん」
「……」
賞賛の言葉にアルディラは答えず、品物を主に手渡す。ヤッファは肩をすくめた。
「どんな風に投げたらいいかな」
「どう投げても、不自然だろうよ」
ハイネルは身をかがめて、餌を手に持ったまま投げ方を模索していたが、結局斜面ぎりぎりに鋭く飛ばした。高く飛ばせば目立つので、そうならないようにと努力したようだった。
だが餌は草にとられて、目標まで半分の距離もいかずに止まった。
思わずハイネルが駆け寄って拾おうとすると、今までうつむいて歩いていた獣が足を止め、むくりと顔を上げた。気づかれたらしい。
「あっ」
「ばーか」
中腰のまま固まるハイネルと、遠くの獣が見つめあう。
ハイネルは額に汗を滲ませながら、前に伸ばしていた手をゆっくりと後ろにまわし、小声で言った。
「ア、アルディラ」
「はい」
「ポワソの召喚石、あるかい」
アルディラはすぐにカバンから青い石を取りだして、主人の手のひらに放る。
石を握ったハイネルの手が前に突き出されると同時に、遠くの獣が身を翻すのが見えた。間に合うか。
「来たれ―――」
大分はしょった詠唱が終わるとともに、霊界の小さな使者が青い光をまとって現れる。
ポワソは半透明の柔らかい体で宙を飛び、口から紫の霧を辺りに吐きだした。
眠りの霧だ。心得ているアルディラたちは、各々口と鼻を覆った。
広がったもやが、徐々に晴れていく。
やがて視界にうっすらと、草むらに倒れている赤褐色の獣の姿が映った。どうやら無事に、眠ってくれたようだ。
「術が効いたみたいだね」
アルディラたちは安堵の息をついた。
「よし、あの子の目が覚めてしまう前に、走ろう」
言うなり地面につまづいて転ぶ主人にアルディラが駆け寄る。その横を、ヤッファが素早く追い抜いていった。
管の中の注射液が、ゆっくりと下がっていく。
最後の一滴までなくなり、針を抜いた瞬間、ハイネルはほうっと溜息を漏らした。
彼の腕のなかには、ぐったりと眠ってる赤褐色の獣が抱かれている。
「これでもう大丈夫なのかな」
アルディラは手に持った注射を注意深くしまいながら、ええ、と頷いた。
「一度の投薬で結構との説明でした。まだ発症には至ってませんし、他の動植物に影響を与えた可能性も低いでしょう。あとは何も心配はありません」
「そう。よかった……」
ハイネルは苦い笑みを浮かべた。
彼らが汗をかきながらこの一匹を追い求めていたのは、昨夕もたらされたある報せが原因だった。
その報せとは、「派閥の研究所から実験用の召喚獣が一体、逃亡した」というもの。
事件というほどでもない、会議に出席していた召喚師たちの溜息を誘う、小さな失態である。
ハイネルなどは初めそれを聞いたとき、むしろ喜んだ。ああそうか、逃がしてあげればいいじゃないかと。
元々ハイネルは、島で行われている召喚獣を使った実験に反対だった。異世界の住人に格別な親しみを覚えているハイネルにとって、近頃の召喚師の彼らに対する傲慢さは、許せないものがある。
だが、その逃亡した召喚獣の詳細について聞いたとき、ハイネルは椅子から飛び上がった。
くだんの獣には、実験においてちょっとした仕掛けが施されているというのだ。
周りに対して負の干渉を与える。歩きまわって呼吸をし、汗やふんをだすだけで、近くにいる動植物に状態異常を引き起こすという。
早い話が、生物兵器である。
実験室の職員の説明によると、問題の召喚獣に施された実験はまだ初期段階のもので、その威力も人の命を奪うまでには至らないという。だから派閥として特に措置はとる必要はないから放っておいてもよいとのこと。召喚師たちはそれを聞いて、胸を撫で下ろした。
ハイネルはでも、と反論した。
「人は死なないといっても、他の動物はどうなんだい。それに、当の召喚獣の健康は―――」
「……」
ハイネルは翌朝、日が昇るか昇らないかのうちから、数少ない部下を連れて獣の捕獲に駆けまわった。
「人間ってのは悪辣なことを考えるねえ。俺たちにゃ真似できないぜ」
ふざけた口調のなかに、暗い響きがあった。
「ちょっとヤッファ」
「いや、ヤッファの言うとおりだよ。こんな非道な仕打ちをしてしまったことを、僕たちは恥じなければならない。研究所には、改めて強く抗議しておくよ」
「ついでに言うと、こんな目に合ってんのは何もこいつだけじゃねえ。―――ってアンタに訴えてもしょうがねえか」
「? どうしてだい」
「最近はぶかれてるんだろ、アンタ」
「……」
密かに気にしていたのか、ハイネルはうつむいた。アルディラはヤッファのひざをつねった。
「てっ、本当のことだろうが」
「本当でも、言ってはいけないことが―――」
アルディラは自分の失言に気づいて口を閉ざした。
ハイネルは力なく笑った。
「はは。うん、でも仕事から外されているお陰で、こうして一日駆け回っても怒られない訳だし……」
「何だかなぁ」
ヤッファは面白くなさそうに寝転がった。
ハイネルはしばしそんなヤッファを眺めていたが、アルディラに向き直り、言った。
「キッカの実をくれるかい、アルディラ。この子、やはり大分消耗してしまっているみたいだ」
「すげえよな」
アルディラは隣に寝転がってる男をちらりと見て、ふたたび草むらへと視線を戻した。
その先にいるのはハイネルと、先程目を覚ました獣である。陽射しのもとで戯れる彼らを遠目に眺めながら、アルディラは木に寄りかかって座っていた。
「マスターのこと?」
「あんただよ」
ヤッファは言いながら体を起こす。降ってくる木漏れ日に気持ちよさげに目を細め、首をぽきぽきと鳴らした。
「よくも注文されてすぐにぽんぽんと物が出るってんだ。あんたのカバンにゃ呪術がかかってるらしいな」
「からかわないで」
つっけんどんに言うと、ヤッファは少し考えたあと、そうっと首を伸ばしてきた。
アルディラはカバンを引き寄せる。
「のぞかないで」
ヤッファは気を悪くした風はなく、くつくつと面白がっている。
「冷たいのな。そんなに俺が嫌いかい」
「怠惰な人は嫌いなの」
「怠惰なもんかい、こんなところまで付き合わされてんのに文句も言わねえで」
「それが私たちの仕事でしょう」
へえ、と自嘲気味に口元をゆがめる。
「仕事、仕事ねえ。俺の仕事はフバースの群れのための狩りだった筈なんだがなあ」
「まだそんなこと言ってるの……いい加減、あきらめなさいよ」
「……」
むっつりと黙るふたりの視線の先で、獣がひとりで草原の向こうへと駆けていった。
必死に可愛がっていた相手に嫌われたらしいハイネルは、肩を落として打ちひしがれている。
ヤッファは顔を崩して、小さく吹きだした。
「……あーあ、馬鹿らしいな。めんどくせぇ」
ヤッファは咆哮のような声を上げて、大きく伸びをした。そして片手で顔をこすりながら、アルディラに向かって手のひらを差しだす。
「眠くなってきやがった。ちょうどいいアルディラ、何か目ぇ覚めるものくれや」
「……ないわ」
「ねえのかよ」
「ないわ」
目を細めるヤッファの訝しげな視線にはかまわない。ないものはないのだ。
ヤッファは頬をぽりぽりとかいて、カバンを見つめながらしばらく黙っていたが、言いにくそうにぼそっと呟いた。
「あー……たった今気づいたんだが。そのカバン、実はかなり重かったんじゃねえか。帰りは俺が持ってやるよ」
「……結構よ」
断ると、ヤッファはむっとしたように言った。
「ただの親切だ。こっそりのぞいたり盗んだりなんて、そんな卑しい真似はするつもりねえぞ」
珍しくムキになっているらしい様子に振り向くと、やはり珍しいことに顔がひどく真剣だ。誇りを傷つけられたと思ったのだろうか。
アルディラは少々驚き、そして毒気を抜かれて思わず表情が緩んだ。
「ありがとう。でも、本当にいいのよ」
「……」
前に向き直り、アルディラは黒い大きなカバンを撫でた。隣の男は黙ってアルディラの慈しむような手つきを眺めている。
このカバンには、呪術などはかかってはいないが、代わりにロレイラルの技術が施されている。アルディラなりの、故郷への愛と誇りが詰まっていた。
「これは私の物だもの。あの方の望むものを、望んだときにさしあげる。―――そのための、大事な」
顔をあげて、陽射しを浴びて輝く目の前の草むらを見つめた。
「大げさな言い方だけど、あの方への忠誠の証よ。他の誰かに渡したりなんてできない」
「……忠誠、か」
「そうよ」
ヤッファはふうん、とつまらなそうに返事をした。
「えらいねえ。召喚獣の鏡だ。俺にゃ真似できねえな」
棘のある言い方にアルディラがむっとして振り向くと、ヤッファは笑って身を乗りだした。
「だけどよ、姉ちゃん。ハイネルの野郎が本当に欲しいのは、」
言いかけたとき、「ヤッファ」と遠くから声がした。ハイネルである。
何か珍しいものを見つけたらしく、地面を指さしながら手を振って微笑んでいる。
ヤッファは頭をふると、溜息をひとつついて、苦笑とともに立ち上がった。
「……お呼びだ」
「あっ」
話の途中で置いてきぼりにされたアルディラは、尻尾を揺らして立ち去るヤッファの後姿を、浮かない表情で見送った。
ハイネルが見つけたものは小さな動物だったらしい。
ヤッファが着いたときにはとっくに逃げられた後らしく、上品な手振り身振りで懸命に説明しているのが見えた。
ヤッファは首を横に振りながら笑っている。ハイネルの肩も揺れていた。
アルディラはカバンを胸に抱えながら、じり、と身のうちの回路が焼けるのを感じた。
帰り道、ハイネルは上機嫌で、下手くそな歌を口ずさんだ。ヤッファが隣で馬鹿にしている。
アルディラは一歩後ろを歩きながら、そんな2人を眺めていた。
カバンをさすっていると、ハイネルが振り向いた。アルディラがはっとして視線をおくると、ハイネルは何も言わず、にこりと微笑んだ。
*
「今日はご苦労だったね、アルディラ。付き合ってくれて助かったよ。ありがとう」
部屋に戻ってからも、ハイネルは微笑を絶やさない。大きな窓を背にして、机越しに上品な笑みをアルディラに送った。
「いえ―――」
冴えない顔をしたアルディラを、訝しく思ったらしい。
ハイネルはようやく笑みを消して、心配そうにのぞきこんできた。
「どうしたんだ、アルディラ。疲れたのかい」
「いえ。何でもありません」
慌てて言うと、ハイネルはそう、と頷いた。彼は疑わない。
「暗くなってきましたね」
取り繕うように、灯りをつけようとランプに手を伸ばす。
その手を、ハイネルが止めた。
「まだいいよ、アルディラ」
「でも」
「すこしずつ空が暗くなっていくのを見るのも、良いじゃないか」
アルディラは、戸惑っていた自分の手を、静かに下ろした。
部屋のなかは、段々と沈んでいった。
ハイネルは椅子を窓に向け、細い指を組み合わせて、微笑を浮かべたまま空を見ていた。
アルディラは、その横に立つ。窓の外の明るすぎる月に頬を照らされながら、口をひらいた。
「私は、貴方のお役にたてていますか」
笑みの気配がする。
「もちろん。僕は君がいないと、一日だって生きていけない」
口にした途端、ハイネルは何故か頬を赤らめ、「いや、生活できない」とわざわざ言い直した。
アルディラにはその微妙さは分からない。必要とされることがただ嬉しくて、安堵を胸に滲ませた。
「何でも、私に申しつけてくださいね。マスター……」
「……うん」
「私は、貴方の欲する物すべてを差しあげたいんです。マスターが世界を望むなら、私は世界を手に入れます」
ハイネルの雪の肌から、いつの間にか笑みが遠のいていった。
「……僕は、世界が欲しいとは思わないよ」
「では何をお望みですか、マスター」
急に声を大きくしてしまい、はっとして唇をかんだ。
「申し訳ありません」
ハイネルは黙って空を見ている。
「……」
うつむくと、短い髪が少しだけ顔を隠してくれた。
アルディラは、窓枠の影を踏む自分のつま先を見つめながら、細い声をだした。
「私はいつでも、貴方に必要とされるものでいたいんです」
ずっと抱えていた思いが、口からこぼれ落ちていく。
「貴方は私をロレイラルから―――冷たい地下シェルターで眠る日々から、救いだしてくれました。私が長い間思い描いていた夢を、かなえてくれた……。だから今度は、私が貴方の望みをかなえたいんです」
「望むもの、か……」
ようやく応えてくれた声に、アルディラは顔をあげた。
「ひとつある」
「それは」
「……」
「どのような物ですか」
つま先がハイネルに近づいた。
「物……ではない、かな」
ハイネルが振り向いた。淡い色の瞳に月の光が差しこんで、きれいに透き通っている。
「物ではない?」
「うん」
ハイネルは謎かけをしている子供のように笑った。
いつだってこの人は子供のようだとアルディラは思う。
蝶を追う少年のような目をしている。だからアルディラは不安だった。
いつかそのまま、どこかに駆けていってしまうのではないか。自分を置いてきぼりにして、消えてしまうのではないかと。
アルディラは肘掛のうえに置かれたハイネルの手に、思わずしがみつきそうになりながら、必死に答えを得ようとした。自分は、求められなければ分からない。
「教えてください、マスター。それがいったい何なのか」
「なんだと思う」
一層白く照らされた彼の頬に、睫毛の影が差した。
ハイネルはささやく。
「考えて、アルディラ……」
ハイネルの指が伸びて、握りしめたアルディラの手に触れた。
すぐに指は離れていく。ハイネルは微笑んだまま、アルディラをじっと見あげていた。
そしてふたたび、空を眺める。
アルディラは力を抜いて、こぶしをほどいた。爪のうえに、月の光が落ちた。