ガードレール 眼下に果てしなく森が広がっている。
構成する樹木の一本一本には個性があり、種類も高さも違うのだろうが、このような遥かな高みから見おろせば、ただ全体として緑、としか目には映らない。
自分もあのように大きなものの中に紛れていれば、多少高かろうが大きかろうが、他と区別などできないだろうと、シャムロックは思う。
頭上から強い風が吹いた。馬が小さくいななく。
愛馬の首を撫でてなだめてから、シャムロックは通り過ぎた風の行方を目で追った。
風は尾を長くひきながら、ほぼ直角をたもつ岩壁を滑りおちるようにして消えていく。
「落ちるぞ」
馬の上から崖下をのぞきこんでいたシャムロックに、背後から声がかけられた。振り返ると、黒馬に乗った黒鎧の騎士―――ルヴァイドの姿があった。
「この子は利口だから、足を踏み外したりはしませんよ」
体を起こし、馬のたてがみを手の甲で撫でつける。
「馬は利口でも、騎手が落馬するかもしれんだろう」
私も利口だから……とは性格上言うことのできないシャムロックは苦笑して、「気をつけます」とだけ言った。
馬をすすめて崖から遠ざかったシャムロックとルヴァイドは、反対側にそびえる岩肌を見上げた。ここは右に深い断崖、左に高い絶壁をひかえた岩棚であった。
視線を上にやったまま、シャムロックがつぶやく。
「正直、ここで戦端を開きたくはなかったな」
「ぼやいても仕方あるまい。こちらの都合など、先方は構ってはくれぬだろうからな」
いやむしろこちらの都合が悪いからこそ、敵はここを戦いの舞台に選んだのだろう。この崖道はそれなりに広さは持っているものの、馬に乗って動きまわるには窮屈だ。騎兵の機動力は殺される。
シャムロックは道の後ろを見やった。味方の騎士や兵らが、細長い陣をつくっている。実に整然とした並びだが、それは軍の前方だけで、後尾の方ではいまだ反転して道をくだる兵たちがもたついて混乱していることを、シャムロックは知っていた。
少しでも戦いの空間を広げるため、順繰りに軍を下がらせているのだが、実際戦闘の舞台となるこの場所に効果があらわれるのは随分と先のことになりそうだ。
この不手際に新生騎士団の未熟を感じるが、実質一年の訓練期間を経ただけの元素人集団としてはここらが限界だろう。むしろ、よくやっている方だ。
「斥候から報告があった時間とその時の敵との距離を考えれば、そろそろですね」
「ああ」
短く答えた男の横顔を見て、シャムロックは呆れたように笑った。
「なんだか、戦いを楽しみにしているような顔だ。物騒な人ですね」
「ふん。お前こそ、血の昂揚が全身から滲みでているぞ。人のことは言えまい」
確かに、自分は昂揚している。しかし、楽しいのとは違うと、シャムロックは思った。
戦いを前にして、心が高ぶり血液がどうどうと駆けめぐるのは、さがだ。
剣を握る者の宿命とも言いかえられる必然だ―――。
シャムロックは剣の柄に手を添えて、長く細い息を吐いた。
「シャムロック。お前なら、どうする」
「え?」
唐突な問いに聞き返す。
ルヴァイドは馬上で腕組みをしながら、唇の片端をつい、と上げた。やはりこの男は楽しんでいる。
「お前が敵の立場であれば、どうすると聞いているのだ」
相手がどう出てくるか、さまざまな可能性を検討した上での打ち合わせを、先程したばかりだ。その中で、我々ならばどうするか、という話も当然に出た。
口調や表情から察するに、まともな答えを問うてはないのだろう。
シャムロックは、微笑みながら人差し指を上にむけ、言った。
「そうですね。もうちょっとこの岩壁が反っていなくて、時間に余裕があったら、両軍接触する前に崖の上から大岩を落とします。敵列の真ん中に、不意打ちで」
「らしいといえばらしい策だな」
どういう意味か、聞きたくなったがこの場はとりあえず流しておく。
「使うなら命より物を、です」
ルヴァイドは考え深げに崖の上を眺めている。
どうやら本当に、冗談だとはとっていないらしい。シャムロックが少々複雑な思いを味わっていると、隣の男が空をあおいだままふと口を開いた。
「……敵がそれを使ってくる可能性はないか?」
「あちら側からこの崖の上に出る道はありません。よじ登ることはできそうにもないですし」
「飛竜で空から降り立つ」
「岩を運べません」
「召喚術を放つとか」
どきりとした。
「召喚術なら、術師の力量によっては多少のコントロールも効くからな。壁が反りかえっていても、或いは」
ふたりで頭の真上に覆いかぶさる黒い輪郭を、真顔で眺めた。
普通の召喚術だと、効果やコントロールが範囲はそうは広いものではない。だから術師とある程度の距離があるのであれば、被害を恐れる必要はないのだ。通常は。
が、もし術師の力が普通ではなかったら。たとえば相手が派閥の幹部や調律者の少女のような使い手であれば。
(もしそうだったら運がなかったとしか言いようがない。すべての可能性に対処することはできない)
確実な勝利も万端の準備もありえない。だから戦いはいつも死と隣りあわせなのだ。そこに例外はない。
シャムロックはあごに当てていた手をはずし、ルヴァイドに向き直った。
「―――まあ、とりあえず今回はあちらがこの策でくる可能性はないようですね。仕掛けてきました」
戦いの序幕は弓矢の嵐によって飾られた。
両軍の長弓兵の放つ矢が、雨だれのように相手の陣に降りかかる。歩兵が射手の盾となり、または攻撃の補助として、敵軍と競りあう。
岩棚には地に突き刺さりもしくは折れた弓矢が散乱し、その間を鮮血が幾筋も縫うように流れた。
シャムロックは飛んできた矢を剣でなぎ落としながら、相手方の戦列に青白い光をみて、即座に叫んだ。
「撃たせるな! 左翼、召喚師を狙え!!」
瞬時にして矢の流れが一部向きを変え、何本もが光に突き刺さる。そのまま拡散するように輝きが失われるのを確認して、シャムロックは息をはいた。
(にしても、頑強な守りだな)
睨みつけるのは、敵軍の前方に並ぶ重装歩兵の列だ。
入りこむ隙のない高い密度と、押しただけではびくともしないだろう重量。まさに鉄壁といった貫禄で、軍全体の防御を担っている。
攻撃の花形として立ちまわれる類の兵たちではないのだが、機動を武器とする騎兵を押しとどめる盾としては、最適だ。騎兵が攻撃の主力である騎士団にとって、実にやっかいな相手である。
いまは地理的にあの盾をさけて後ろにまわりこむこともできない以上、こちらからは迂闊に動けない。このまま相手も動かないままだとしたら、両者ともに、負けはしないが勝ちもせず、ただぐずぐずと血の浪費をすることになってしまう。弓矢や召喚術などで少しずつ、命が削られていく。
だがそれは、このまま互いが自分たちの作戦を徹底しつづけた時、の話だ。完璧にやり通せる防御も攻撃も、ありはしないことをシャムロックは知っている。
弓兵に決して休まず、相手の最前列を狙って撃ち続けるよう指示した。矢の心配はするなと伝える。
時間だけがすぎていく。
背後では、下馬した騎兵たちが、弓の射程範囲の外に控えている。目の前で繰りひろげられている戦闘にはやる兵たちを、ルヴァイドが叱咤して抑えていた。
(今は我慢のときだ。もう少し、もう少し……)
最高潮に達した苛立ちと極度の緊張が、皮膚をちりちりと焼く。
その出所はこの岩棚全体だ。怨嗟と苦悶の声をともなって、敵味方からまんべんなく発せられ―――いや。
シャムロックは目をつむった。戦場にうずまく気をさぐる。
間違いない。ひとところ、とくに強い熱をだしている箇所がある。シャムロックが先ほどから命じ、圧をかけ続けていたその部分。
シャムロックはまぶたを開き、弓兵に指示をだした。騎士団側の弓矢が、一気に弱まる。
「矢が尽きたか!!」
前方の敵がすぐさま反応した。
最前列、長時間軍の盾となって弓矢の猛攻にひたすら耐えていた重装歩兵たちであった。
じっと動かぬまま、矢を振りはらい、時折歩兵もはらいながら守りに徹するうちに、うっぷんは積もりにつもり、彼らを飢えた犬へと変えていたのだ。そこにちらついた餌である。
将の命もないまま、2歩、いや3歩、5歩。ぼろぼろと敵意とともに足をすすめ、しまいには吠えながら相手の陣に駆けていく者たちが、次々とではじめた。
つられるように後ろに控える兵たちも、秩序だった動きにほころびを見せ始める。
それはちょうど、海から陸に引きあげられ、水圧から一気に開放された深海魚が体を破壊される様によく似ていた。
敵将の慌てた声が響く。戻れ、列を乱すな。
だが遅かった。シャムロックは即座に弓兵を下がらせ、手を振り上げた。
―――敵陣の、向かって右に位置する兵の戻りが遅い。
薄茶の瞳にはその部分が、「ひび」に見えていた。頑丈な盾も、ひびが入れば割れる。
決して大きくはないが通る声とともに、手は振り下ろされた。
「騎兵隊―――突撃」
機を察していたルヴァイドが、合図と同時に黒馬を駆って踊りでた。直線に、敵にできた隙の部分へと向かっていく。
赤い髪と剣が旗のように宙にひらめいたのを皮切りに、待ちかねた騎士たちの怒号が戦場に響き渡った。
*
(勝負は決したか)
流れはいまや完全に、騎士団に向いていた。
結局あのときの乱れが敵にとっての致命傷となり、騎士たちによってこじ開けられたその傷から流れでた血は、崖道を赤く染めぬいていた。戦いの終え時も近い。
(どうやら今回も、生きて戻ることができそうだ)
空を切り、一本の矢が飛来した。
シャムロックは難なくそれをかわす。が、後ろで短い悲鳴があがった。
「うあっ」
振りかえると若い騎士の腕に矢が突き刺さっている。顔を歪め、一瞬我を失ったその騎士は、馬の上でバランスを崩した。彼のすぐ横に広がるのは崖の大口。
「危ないっ」
咄嗟にシャムロックは馬をおり、駆け寄った。
―――将である者の行動ではない。目の前の死に動じない冷静さと冷徹さを、兵を指揮するものは常に欠いてはならない。
だが体は反射的に動いてしまった。彼の背後にのぞく森の緑を見た瞬間、体の中に衝動が沸き起こったのだ。
シャムロックの伸ばした手のひらは、落馬して崖に転がりおちた騎士の片手をとらえた。右腕がびんと張る。その先にぶら下がる若い騎士は、青ざめて震えながら、唇だけで騎士団長の名を呼んだ。
シャムロックはひとつ頷き、手の中に感じる重量を強く握りしめた。引き上げようと力をこめたその時。
背後から青白い光が照った。シャムロックは顔を歪める。
(しまった……)
直後、背中が爆風を受けた。強い衝撃と轟音。首が熱に焼かれていくのを感じる。
押しだされ、足が崖の線を越えた。体が傾く。岩をつかもうとした左手は宙をかいた―――かに思われた。
腹が岩壁に強くたたきつけられる。
そのまま何度か揺れたが、体は落ちることなく、宙に止まって浮いていた。
すぐに何が起こったか確認する。下に伸ばされた右の手のひらの中には、未だ若い騎士の手があり、そして上に伸ばされた左の手のひらの中には―――やはり手があった。
視線を上げてたどっていくとそこには、揺れる長い髪の中、影のかかった顔があった。
「ルヴァイド」
左手をぐん、と引かれる。崖のうえに上半身がのった。
男に体を支えられたまま、シャムロックは右手を引き上げる。色を失った若い騎士が、平らな地面に無事のぼった。助かった。
立ち上がり、礼を言おうとルヴァイドの方を向くと、彼は地面に突き刺していた剣を引き抜き、黒馬にまたがっていた。そしてシャムロックの方を見ぬまま、口を開く。
「お前らしいといえばお前らしいが」
言葉を切り、シャムロックにだけ聞こえる声で言う。
「つまらん死に方をするな」
そのまま遠ざかる背にシャムロックは気まずそうに笑い、若い騎士を下がらせた。
戦いは既に終局だった。
シャムロックは最後の攻撃の指示をだす。
自らも剣をふるい幾人かを斬り捨て、ふと見やると、彼方に黒い騎士の姿があった。遠目にも見間違えようのない存在感に、自然と目がひきつけられる。
転落を救ってくれたその右手が、鮮やかにひらめき、新たな転落を次々と生んでいる。血を流して倒れふす人、人。
その光景は彼のまわりだけではない。視線をめぐらせば、さらに多いむくろたちが目に入る。
彼らのそばを流れる風はいま、強い鉄のにおいを崖下の森に運んでいることだろう。
大地に伏して瞳の光を失うその理由は、敵であったからか、味方であったからか。
兵であったからか、将であったからか?
否、とつぶやく。
重力は全ての者にひとしく、谷底に落ちるものに区別などない。あったとしても、そんなものは。
―――生と死を隔てる線、囲い。それはこんなにも容易く飛び越えられる。
一歩外れれば崖の下だ……そのスリル。
胸が震え、口の中が乾く。
心が高鳴るのは、さがだ。
左手を握りしめ空をあおぐシャムロックの耳にいま、かちどきが響く―――。