釣りをする人 ハヤトは釣りがうまい。
手持ち無沙汰になると長い竿を肩に引っかけてふらりと出かける彼は、帰ってくると決まって、重そうな魚かごを片手に揺らしている。
夕焼けの光と磯の匂いを戸口に運ぶハヤト。
彼の影が伸びる玄関には、すぐさま子供たちがにぎやかに駆け寄っていく。自分も少し遅れてそれに続き、離れた場所に立って見守る。
子供らをひょいひょいと手招きで寄せて、並んだ顔の前でかごを開けてみせる彼の手つきは手品師だ。小さな観客たちは、手をぱちぱちさせてはしゃぐ。
時折はねる水しぶきに声をあげる子供らと、それを眺める彼のやさしい横顔。
見るたびキールはいつも、鮮やかだな、と感心するのだ。
「それっ、釣れた!」
川での彼は、より鮮やかだ。
水面に糸を垂らして岩のようにじっと座る彼がふいに動く瞬間は、何度見ても息を呑む。彼のふりあげられる腕を合図にして、止まっていた風景が躍動するのだ。
勢いよくはぜる川面から一際大きな水音をたてて、一匹の魚が噴き出す。きらめく飛沫をまといながら、放物線を描いて空を舞う。
目で追うとその先には、ばちばちと跳ねるしなやかな光を糸ごと持ち上げた彼が、白い歯を見せながら自分に笑いかけているのだ。
彼を包む空は青く、草むらは緑で、水は透明。
何だか困ってしまうほど、それは気持ちの良い色彩の絵だ。
今日も、ハヤトは釣りをしていた。
彼は少しだけ背を丸めて川べりに座っており、その隣にキールは腰を下ろしていた。
自分と彼の間には大きめの魚かごが置かれている。すでに何匹もの魚が中で泳いでいるはずだ。
まぶたに落ちてくる陽気に思わず目を細めながら、よくもこんなに釣れるものだ、とキールは思う。この間自分がやった時とは大違いだ。
先日、キールも釣りなるものに挑戦してみたことがあった。ハヤトのすすめだった。
結果は惨敗である。自分の糸から水音がたてられることはただの一度もなかった。
魚の影が悠々と通りすぎる前で、釣り針にえさがついているのを何度も確認するうちに、キールは自分に釣りの才能がないことをはっきり悟った。
「はじめてだから、コツをつかめてないだけだよ」
彼はそう慰めてくれたが、きっとコツの問題ではないとキールは思う。
おそらく自分は魚に嫌われているのだ。そしてハヤトは、魚に好かれているから、あんなにたくさん釣れるのだ。
大真面目につぶやいた自分の言葉は、しかしハヤトには大笑いされてしまった。
(でも、やはりこの考えが間違っているとは思わないよ。魚たちは、君を慕って集まってきているんだ。細い糸を通して、君の空気を感じているんだろう)
まるで初夏に吹く、心地よい風のような人だと思う。
清々しい緑の香りとともに、背中をやさしく押してくれる。時にすばやく青空を駆け、戻ってきて太陽のぬくもりを頬に伝えてくれる。
ハヤトの側には、みんながあつまる。自分もその一人だ。彼に惹かれて、離れられない。
喪失することなど、考えられない―――。
暖かい陽気の中で、キールの体の内側だけが冷たくなっていく。
湧きだす悲しい気持ちは胸のなかにとどまって、ため息として外に漏らすこともできなかった。
(今日は、あの話をするのはやめよう……)
キールはぽつりと、心の中でつぶやいた。疲れた顔で、目を閉じる。
そのとき、
「どうした?」
思わず肩がはねた。
声の方に目をやると、そこには先程からと変わらぬハヤトの横顔があった。彼の目線は水面に向けられたままだ。
キールは尋ねる。
「どうした、って」
「……」
彼は何も言わない。穏やかな顔に、少しだけ困った笑みが浮かんだ。
キールの顔に、血がのぼった。
―――彼は全部分かっているのだ。
色々な感情が、一気に溢れてくる。
―――ハヤトはいったいどこまで、自分のことを見透かしているのだろう。
「行ってしまうんだろう」
硬い口調の声がひびいた。それが自分の声であると、少し経ってから気づいた。
ハヤトがこちらを振り向く。驚いたように目が少し見開かれていた。
キールは気まずく口を閉じると、うつむいた。何も言うことができなかった。
本当は、用意していた言葉はたくさんあった。
落ち着いて、理性的に話しあうつもりだったのに、こんな切り出し方をしてしまっては台無しだ。
下を向いたままキールが身を強張らせていると、ハヤトがすうっと息を吸うのが聞こえた。
いま顔を上げると、ハヤトは笑っているのだろうか。キールはそう思った。
あの時と同じ笑顔―――キールが「故郷に帰る方法が分かった」と告げた時に彼が浮かべた、あの笑顔で。
「―――今すぐでは、ないけどな」
彼は言った。キールは地面の草を見つめたまま、努めて抑揚のない声で尋ねる。
「でも、遠いことでもないんだろう」
「……」
答えず、ハヤトは川面へと顔を戻した。視線を上げると、彼の横顔に笑みはなかった。
キールも顔を川へと向ける。陽を照り返した水は、きらきらと眩しい光を揺らしていた。
「……この世界が嫌になった訳でも、どうでも良くなった訳でもないんだ」
ぽつり、とハヤトが言った。
「ここは俺にとって、本当にかけがえのない場所なんだ。それは間違いないよ。ずっと守っていきたいと思っていたし、今も心から大事に思っている―――だけど、ね」
キールは苦しげに眉を寄せる。
(だけど、行ってしまうんだろう。生まれ故郷が、恋しいんだろう?)
当然のことだ。しかしキールは、その事実に傷ついた。
食卓で皆と笑っている時も、アルサックの木の下を歩いている時も。
屋根の上に座ってふたり、月を眺めている時も。
いつもいつも、心の中では帰りたい、と彼は思っていたに違いないのだ。
ひどく裏切られた気分になった。すべての元凶である自分が、こんな感情を抱いてはならないのだと頭では分かっていても、心は子供のように泣き叫ぶ。
ハヤトが故郷に帰る方法をずっと探し続け、そして見つけたのは他でもないキールだ。だというのに、「ありがとうキール」という言葉とともに彼が浮かべた笑顔の鮮やかさに、キールはひどく打ちのめされた。
(なんて醜い生き物なんだろうな、僕は。君の側にいるのにふさわしくない人間だと、心から思う……)
こぶしを握り、キールはをうつむいたまま唇をかみしめた。
「キール」
ハヤトが困った声で自分の名を呼ぶ。キールは目をつむった。
(ごめん、ハヤト。それでも、僕は―――僕の願いは、)
胸のうちの圧迫が増していく。溶けてしまった言葉や感情が、ぐるぐると渦の形をとる。
注がれる視線を、閉じたまぶたに感じた。キールはそれに引き上げられるようにして、勢いよく目を開けた。青い空が見えた。
「一緒に行っていいかい」
大声で叫んだ。
ひらけた視界の真ん中で、彼がぽかんと口を開けるのが見えた。
ハヤトはそのまま時を止めたように動かなかったが、立ち直って何かを言いかけた。それをさえぎるように、キールは早口で言う。
「行きたいんだ」
それは話し合いではなかった。ただ一方的に求めるだけ、理由も、話す順序もまるでない。
ハヤトは口を閉じて、真剣な目で自分をまっすぐ見つめてきた。心が空気にさらされるように感じる。
心臓があわただしく動くのを感じ、目の前は真っ赤に染まったかのような錯覚に陥った。
どれほどの時間が経っただろう。
にらむように視線を交わす2人は、この穏やかな川辺にひとく不釣合いだ。
我慢比べのような見つめあいが続く中、唐突にバシャリという音が響いた。
竿が傾く。力の抜けていたハヤトの手が、あわてて竿を握りなおした。力をこめて引っ張る。再びバシャンと音がして、糸がびんと張られた。
ハヤトはキールをちらりと見た後、体を川に向き直らせ、竿を勢いよく引いた。川面に激しい飛沫のかたまり浮かぶ。
いつになく、てこずっているようだった。魚は暴れまわり、ハヤトは眉間にしわを寄せながらそれを御する。
額にじっとりと浮かんだ汗を見ながら、キールは自分も何か手伝った方が良いのだろうかと思った。体を強張らせる。
戸惑いながら、片手を伸ばす。彼の右手のすぐ下に添えた。そしてもう片方の手も彼の腕をかいくぐって竿を掴んだ。力の限り握り締める。
ハヤトの動きを感じ、呼吸を合わせる。ハヤトの肘の緊張を知る。
すぐ横の瞳と同じものを見る。―――一本の、ピンと張って真っ直ぐな線。
キールは唐突に時機を悟って力をこめた。合図なく同時に、ハヤトの腕も振り上げられた。ハヤトの肩が、したたかにキールの胸を打つ。キールは竿を持つ手を緩めなかった。
釣った魚は大きかった。
水を出ても猶も魚は威勢よく跳ねまわっている。
キールは体を離して、頬に飛んだ水滴もぬぐわずに、動く尾ひれを見つめていた。
―――これはリプレや子供たちが喜ぶだろうな。
そう無意識に考えてしまってから、キールはひどく動揺した。
うろうろと視線をめぐらせると、ハヤトも同じことを思ったのだろうか、彼もまた珍しく目が泳いでいた。
ハヤトは糸を掴んで魚を目の高さまで持ち上げた。
そして疲れた笑みを口元に浮かべながら、くるくる回る魚をじっと眺めた。
キールも正座しながら、無言でそれを見ていた。
「……あっちには、キールの好きなライカの実はないよ」
ハヤトが言った。キールは、勢いこんで頷いた。
「連載中の小説も読めなくなるぞ」
何度も頷いた。
振りかえったハヤトの顔は、困ったような苦笑いを小さく浮かべていた。じっと、キールの顔を見つめる。
それからふと、鮮やかに笑った。
キールもつられて、笑った。