かみなり 背後から光が照った。
振り向くと、もう消えていた。薄暗い空が窓越しに広がっている。
直後、腹に響く音が鳴りひびき、ああ、今のはかみなりだったのだと気づいた。
イオスはカーテンを閉めようとして思いとどまり、窓を眺めた。―――景色に重なってぼんやり浮かぶ疲れた顔は、目に入れぬようにして。
今は黄昏。灯りをつけねばすべてがあいまいに映る時間帯である。
眼下に見える地面も草木も通る兵たちも、姿は見えるものの存在感が薄い。ほのかに灰色がかっているせいなのだろうか、どこからが本体で、どこからが影かの判別がつきづらく、動きに輪郭が遅れてついていっているかのような感覚にすら陥る。
現実感のない風景だ。真夜中の真黒な視界に感じる恐怖はないが、ひどく不安をかきたてられる。
(気弱な)
頭をふり、イオスは空を見上げた。
そこもやはり、ぼやけた暗い灰色だった。夕日は照らずにただ黙って暗くなっていった天に、頼りなげな月だけが輝く。
弱々しい電球。指で弾けば割れてしまいそうだ。今は何とか光を保ってはいるが、多分すぐに隠されてしまうだろう。黒い雲が、夜の空気を巻きこんで大きくなりながら、せくように走っていた。
突如雲が光った。
天と地が白い柱でつながれる。その一瞬の光の軌跡を、イオスはとらえた。今度は間髪いれずに雷鳴が轟く。
余韻が尾をひく中、イオスは窓枠に手をかけたままゆっくりと振り返った。赤毛の男が立っていた。
いつのまにか部屋に入ってきたのだろう。男は一言、灯かりは、とだけ言った。
「いえ……かみなりを見ていたので」
イオスが答えると、ちらりと窓の外を見て、ああ、といった。まるでたった今、気づいたかのように。
―――そういう人だ、この人は。何にも興味がないふりをする。
「お好きでしょう、雷」
言葉がついて出た。
男が怪訝そうに見つめてくる。驚いたのだろうか、今までこのような話をふったことは一度もなかったから。
いつも無機質な話ばかりだった。あとはただひたすらの沈黙。
数年間ともにいて、ろくな会話を交わした覚えがない。きっと理由は自分が男を憎んでいたから、そして男が疲れていたから、なのだろう。
今になって自分が男との関わり方を変えようとしているその理由の方が、イオスにはわからなかった。
「何故、そう思う」
男が応える。
「……そのような気がしたので」
会話が途切れた。ふたり無言で、既に完全に暗くなった室内から外を眺める。目の前で幾つもの青白い光が鮮烈にひらめいた。
(お好きでしょう、雷。貴方は激しいものに惹かれるから)
熱や光、強い響き。抗うことのできない力、衝動。
そういったものを、この男が好んでいるということを、イオスは知っていた。
長年押し殺し、殺されて鈍磨した神経が、震えるほどの刺激を与えられる瞬間に、彼は満たされる。いつもは何事にも心動かされることのない男だからこそ、おのれを揺さぶる鮮やかな何かに、強い憧れを持っているのだ。
それがたとえ自身を壊してしまうものだったとしても―――男は、ひかれていく。
光に頬を濡らしながら、イオスの脳裏にまだ新しい映像がよみがえる。
双子の若者の憎しみ、砦の騎士の怒り、問いかける少女の叫び……。
そしてそういったものを受ける、男の表情。
おそらく、本人も気づいてはいまい。
苦痛の表情の中にひらめいた恍惚。
それを知っているのはきっと、イオスだけ。
(―――貴方が何も喋らなくたって、僕は知っているんだ。だから、こんなにも苦しいんだ……)
再び閃光がほとばしる。思考は掻き消え、視界が奪われる。轟音が体の奥に響き渡る。
間断なく鳴りつづける雷を前に、イオスは思った。
自分もこの雷のようでなければならない。決して、夜にぼんやりとたゆたう、あんな光であってはならないのだ。
すべてを包み、見守るあれのようであっては……。
流れる雲の合間に、透けるような円が浮かんでいる。静かな光。荒れ狂う空の中で、その周りの時だけが止まっている。
決して強くなく、穏やかに。何かの目印のようにただ光りつづけるだけ、ただあり続けるだけ―――。
「美しいな……」
後ろに立つ男がつぶやく。
何が、と問う間もなく雲がすべてを黒く塗りつぶし、ひとつふたつと増えていく雨音がカーテンのように、この夜を覆った。