海神と迷子 4「別れは済んだかのう?」
「はい」
下界での一日は本当にあっという間で、
千栄理は最後の別れを惜しむように少し夜更かしをしてから天界へ来た。彼女が来たとヘルメスから報せを受けたゼウスは、ポセイドンと
千栄理の契約を見届けるため、また彼の居城へ足を踏み入れていた。
今の彼女は、少し前に用意されていた礼服に着替えて儀式の始まるのを待っていた。真っ白なドレスだが、両袖は肩の上まで縦に切り込みが入っていて、彼女が動く度にストールのようにひらひらと靡く。胸元が空いていてデコルテが見えるので、
千栄理は内心、もう少し手入れをしておくべきだったかなと後悔した。
契約自体は至極簡単なもので、契約を結ぶ人間が神に対して跪き、自分の氏名と魂を捧げる旨を宣言する。それを受けた神は自身の武器で対象者の背後を払い、下界との繋がりを断つ。それだけなのだそうだ。
「もう思い残すことは無いか?」
「……はい、大丈夫です」
もう家族や友人達にはいつまでも思っていると伝えた。身の回りの整理は叶わなかったが、できるだけのことはした。正直に言って、まだ寂しい気持ちはあったが、
千栄理はもう一日を掛けて覚悟を決めた。後悔は、無い。
「では、始めるとしようかの」
「
千栄理さん、儀式の前にこちらを」
そう言ってヘルメスが差し出したのは、極薄い白の生地で出来たベールだった。彼の説明によると、神と契約する女性は皆同じ物を頭に被せるのだそうだ。特に疑問を持つことも無く、
千栄理は渡されたベールを被り、ゼウスに言われた通りにポセイドンと向かい合わせになった。事前に教えられた通り、その場に跪き、両手の指を組んで祈るように目を閉じた。
「海の神ポセイドン様。私の名は、
春川千栄理。あなた様に私の全てを捧げます。どうか、あなた様のお慈悲をもって、私がお傍にいることをお許しください」
「……」
儀式が終わるまで目を開けてはいけないと
千栄理は言われている。何故かは知らないが、きっと神に対して不敬に値するからだろう。ポセイドンは何も応えない。
千栄理はどうしたら良いか分からず、じっとそのままの体勢で辛抱強く待つしかなかった。ポセイドンは黙っていたかと思うと、武器を手に
千栄理の目の前まで歩み寄り、じっと彼女を見つめていた。と、思った矢先、少し屈んでぐい、とポセイドンは彼女の体を抱き締め、その背後を切り払った。
「許す」
ぷつん、と何かとの繋がりが、確かに
千栄理の中で絶えた。同時に恐ろしい程の喪失感とそれによく似た絶望が全身を電撃のように駆け抜け、途端に体から体温がどんどん奪われていくような気さえする。堪らず彼女は全身を震わせながらポセイドンの腕の中で彼に縋り付き、大粒の涙を流して泣き出した。
下界との繋がりを断たれ、いよいよ独りぼっちになってしまった悲しみと絶望に必死に堪えている姿を見て、流石のゼウスも声を掛けるべきか少し迷っているようだった。依然としてポセイドンの腕の中でぐずる幼児のように泣いている
千栄理に声を掛けたのは、意外にも縋り付かれているポセイドンだった。
「泣くな」
ベールを少し上げ、彼女の顔が見えるようにすると、ポセイドンはその頬を濡らす涙を指で拭ってやる。彼の指が触れた瞬間、
千栄理は微かに肩をびくつかせて目を開いた。その瞳は依然として凪いだままだったが、初めて出会った時より幾分か、柔らかい光を宿しているように
千栄理には見えた。
「お前は余と契りを交わした。己で決めたことだろう。泣くな」
「……はい…………はい……っ」
頭では分かっている
千栄理だが、やはりいきなり割り切れる訳も無く、涙は止まらない。なかなか泣き止まない彼女に、ポセイドンは小さく溜息を一つ零して、ぎこちない手つきながらも、彼女の頭を撫で始める。そうしていると、少しずつ落ち着いてきた彼女は自分で涙を拭いながらベールを取り去り、几帳面に畳み始める。
「ごめんなさい。もう大丈夫です」
まだ目元は赤かったが、涙は止まったようだ。それを見ると、ポセイドンは抱き締めていた腕を解き、
千栄理は畳んだベールをヘルメスに返す。
「これで、晴れてお前さんはポセイドンのものじゃ。後のことはポセイドン次第じゃぞ。ヘルメス、ここでの生活について説明してやると良い」
「かしこまりました」
去って行くゼウスの後ろ姿に
千栄理は「ありがとうございました!」と深々と礼をする。振り返らずにゼウスは片手を振って「幸せに暮らすんじゃぞ」と返した。
ポセイドンの居城を出て、自分の城へ帰る道すがら、ゼウスはほうと息をつく。先程の
千栄理の言葉を思い返し、「ええ子じゃったのう」としみじみ呟いた。
千栄理はまず、城内を把握するということでヘルメスと一緒に城の中を見て回ってみることにした。何故かポセイドンも、二人の少し後ろから付いて来ていたが、ヘルメスに「私達が何かしでかさないか、見張るためでしょう」と耳打ちされ、なるほどと
千栄理は納得した。
礼服を着たままだったが、特に寒さを感じることは無い。今まであの大広間と中庭と井戸くらいしか見たことの無かった彼女は、広い城の中を見て回れることに少し気分を回復したようだった。
いつもと反対方向のドアから大広間を出て通路に出る。ヘルメスが最初に
千栄理を案内したのは、近くの食堂だった。客神用の食堂で、普段は殆ど使われることが無いせいか、いやに綺麗な状態だ。そこで
千栄理は前から気になっていたことを訊いた。
「そういえば、このお城って使用人の方はいないんですか?」
「ポセイドン様は、あまり他の神や種族を入れたがりませんので。身の回りの世話は、ポセイドン様ご自身の御力で賄っております」
「ポセイドンさんの力?」
どういうことなのか、ピンと来ない
千栄理にヘルメスは「あれですよ」と食堂の奥を指した。その方を見ると、丁度奥の扉を開けて入って来たのは、箒を持った水だった。正確には人の形をした水だ。それも、六、七人はいる。透明な体をぷるぷると揺らしながら、端の方からせっせと箒を掛けていったり、窓拭きを始める姿に、
千栄理はぽかんと口を開けて見入っていた。
「……あの、ヘルメスさん。あの人達、私には透明な水で出来てるように見えるんですけど」
「ええ、私にもそう見えます。あれがポセイドン様の御力の一つの形ですね。普段の生活に欠かせない水そのものに世話をさせていらっしゃっているようです」
「……え。じゃあ、私がやることは……」
「特に無いのでは?」
「えぇ〜……」
「お前は余の従者ではないだろう」
意外にも話に入ってきたポセイドンに、
千栄理とヘルメスは注目し、
千栄理は疑問符を浮かべて、彼の近くへ歩み寄る。
「じ、じゃあ、私、ポセイドンさんにとっては何なんですか? 契りを交わしたら、従者みたいに特別な関係になるって聞きましたけど……」
「…………」
何故か黙り込んでしまったポセイドンに、
千栄理は彼が何か言い出さないか暫く待っていたが、答えが返って来そうにないのを見ると、ヘルメスに助けを求める視線を向ける。向けられたヘルメスは少し苦笑して、
千栄理をポセイドンから優しく離した。
「あまりポセイドン様を困らせてはいけませんよ、
千栄理さん」
「ヘルメス、余計なことを言うな」
訳が分かっていない
千栄理は、少々納得がいかないながらも、自分が悪いのかと少し反省した。