海神と恋人 31※※ご注意※※
・この連載シリーズはポセイドン夢です。始皇帝夢ではありません。
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その男は例えるなら、影だった。路地裏の日陰、夕暮れと夜の狭間に降りる影、そういったところから、音も無くぬるりと現れるように静かに近付いてきていたのだ。柘榴石を想起させる暗い赤の帽子、コート、パンツという全身その色で揃え、右目には歯車の装飾が付いたモノクルを掛けている老紳士という出で立ちの男。だが、その一挙手一投足に至るまで、一切の隙が無い。始皇帝も千栄理も、その男に見覚えは無かった。アジア人とも全く違う顔の造作は、欧州辺りの人間だろうか。男は芝居がかった所作で丁寧に一礼する。
「何者だ? 女神が目的か?」
「”あなたの本質は何でしょう、あなたは何から作られているのでしょうか? 百万もの影があなたに傅いているのはなぜでしょう?”」
問いに答えず、妙な台詞を口にした男に、始皇帝は警戒を強めて千栄理を庇うように前へ出た。
「……何の話だ」
「おや、ご存知ありませんか? シェイクスピアですよ。神のように貴い方々でも、知らないことはあるものなのですねぇ」
「その態度、やはり朕が中国皇帝と知った上での狼藉か」
「我が女王が、そちらのお嬢さんをご所望でして」
男はちら、と始皇帝の背後にいる千栄理に目を向ける。目が合った千栄理は、突然現れた只者ではない男に恐怖を覚え、縮こまっている。男は彼女を見つめていたかと思うと、始皇帝へ向き直った。
「英国の者か。どこも考えることは同じだな」
どこか自嘲的に笑う始皇帝を見つめていた男は、ほうと溜息をついて独り言のように呟く。
「溢れんばかりの自信と誇り。少しの軽蔑。そして、この色は何でしょう? 燃えるような薔薇色……これは恋でしょうかねぇ。そちらのお嬢さんも良い色です。恐怖の中にも慈愛が見える。私に対する疑念もあるのでしょうが。ああ、実に、実に良い色です。この色が恐怖一色に染まる様はどんなに美しいことか……」
昂る己を律するように手で顔を押さえる男。熱のこもった言葉に異様なものを感じて、千栄理は不安げに始皇帝の背中を見つめた。
「案ずるな、千栄理。そなたを渡しはせぬ。約束しよう。そなたは朕が守る」
安心させるように振り返って微笑む始皇帝。その後ろ姿が一瞬、何故かポセイドンと重なって見えた。
どうして、背格好も態度も何もかも違うのにと思ったのも束の間、素早い動きで千栄理へ迫ろうとした男を始皇帝が阻んで捕まえようとした。が、触れる直前のところで男は後ろに下がり、始皇帝と間合いを取る。懐から何か取り出そうとする動きを見逃さず、始皇帝は一気に距離を詰めた。
「哈!」
相手を殺す必要は無い、気絶させる目的で放たれた掌底を軽々避け、男は更に下がった。船の縁にまで追い詰められた男に始皇帝が言葉を掛ける。
「このまま逃げれば、無かったことにしてやるが?」
「Sir.私のような者に情けをかけて頂けるとは、光栄です。しかし、これで準備は整いましたよ」
訝しげな表情をする始皇帝の背後で、バキバキと派手な音が立ち、千栄理の短い悲鳴が聞こえる。弾かれたように振り返ると、先から折れるように真っ二つに裂けた船が、船首側にいた千栄理を乗せて流されていく。
「千栄理!!」
「ほら、ちゃんと見ていないと、あのままではいずれ残骸諸共沈んでしまいますよ。狂乱の末、入水したオフィーリアのように」
千栄理を助けに行きたいが、背後から奇襲をかけられる危険性もある。仕方なく、向かってくる始皇帝の追撃を躱し、男は空へ逃げた。何も無い空中を蹴るようにして空へ逃げた男を追わず、始皇帝は千栄理が流された方へ向き直る。その隙に空中に張り巡らせたワイヤーを伝って、男は千栄理が乗っているであろう片割れに乗り込んだ。このままでは、ただ彼女が攫われるのを見ていることしかできない。船から降りなければと思い、周囲を見回す始皇帝の目に、出し抜けに千栄理の姿が飛び込んできた。
「千栄理!? そなた、どうして――」
「皇帝陛下、お怪我は? この船も危ないです。私に掴まってください」
目の前には翼も何も無く、宙に浮いている千栄理の姿があった。
船首側の残骸に飛び込んだ男だったが、そこがもぬけの殻だと知ると、思わず「Unbelievable」と呟いてしまった。
「まさか、煙のように消えてしまうとは。あのお嬢さんが女神という噂は、あながち間違っていないかもしれませんね」
ふと、岸の方で歓声が上がり、そちらを見ると、丁度千栄理と始皇帝が地面に降り立ったところで、男の目には千栄理が足に付けている金のアンクレットが映った。にや、と口角が吊り上がる。
「そういうことですか。まずは、あの天使を落とさなければならないようです」
そう言うと、男はどこからか取り出したフックショットを近くの桜へ打ち込み、二人の後を追うように岸へ飛び移る。船から岸へ着地すると、周囲にいた人々は戦いに巻き込まれないように逃げ出し、さっきまで活気溢れていた通りは静かになった。
「千栄理、危ないから少し離れていろ」
「は、はい」
千栄理から目隠しを受け取って巻き直した始皇帝は、また男と対峙する。構えながらも、彼はもう一度警告した。
「今一度、言う。このまま何もせず、立ち去るなら見逃してやろう。そなたが大人しく祖国に帰るならの話だが」
「Sir.私と一度、刃を交えたというのに、尚も慈悲深いお言葉、痛み入ります。しかし、私も日々僅かばかりの糧を稼がなければならない身の上。退くことはできません」
「……そなたを雇っているのはイギリス政府か? 女王直属の手の者か? ――いや」
そこで一度切った始皇帝は、しっかりと男を見据える。その目から疑念は消え、ある種の確信を持っていた。
「そういった者ならば、単独でこのような真似はしないか」
「仰る通り。私は祖国の為にこうして皇帝陛下にお目にかかりましたが、その実、政府関係者ではありません。ただ、私はそちらのお嬢さんをイギリス行きの馬車にお乗せして、報酬を頂くだけの端役に過ぎませんよ」
「口では端役と言いながら、まるで主役のような振る舞いではないか」
ワイヤー上で脱帽し、礼をする男を始皇帝は指してはっきり言った。
「頭が高い。王を見下ろす民がどこにいる」
その言葉を受けて、男は「Oops」と零しつつ、ワイヤーから飛び降りて来た。地面に降り立ったかと思えば、もう一度礼をする。
「これは大変失礼致しました。Sir.」
しかし、始皇帝は依然として警戒を解かずに、いつでも対応できるよう構えを崩さない。男は脱いだ帽子を元に戻そうとした瞬間、殆ど予備動作無く、数本のナイフを投げた。自分に向かってきたナイフをはたき落とし、そのまま突進しようとした始皇帝の耳に、千栄理の悲鳴が届く。
はっとして振り返ると、そこには足から血を流している千栄理の姿があった。先程飛んでいったナイフの一本が掠ったようで、足首を負傷したようだ。桜の木の陰に隠れていた彼女の足首を的確に突く辺り、相当の腕前の持ち主だということが分かる。
「千栄理!?」
「大丈夫ですっ。皇帝陛下、前を――」
「これで天使の翼は折りました」
いつの間にか彼女の背後にまで迫っていた男の手が、千栄理を捕らえる。かと思われた。
「千栄理! 伏せろっ!」
ほぼ反射的に彼の言葉に従い、頭を抱えて丸くなる千栄理の頭上から男に肉薄した始皇帝はただ一撃を放った。蚩尤・矛式の一つ、泰山龍爪と名付けられたその技を腹へまともに受けた男は吐血し、背後の川へ落ちていった。