海神と恋人 23 それはラテン語で書かれた本で、タイトルは『偉大なる力』とある。読めはしたが、惹かれるものを感じなかった
千栄理は、タイトルを一瞥しただけで素通りした。
次に目についたのは、少し奥の本棚を見た時。そのタイトルは『魔をもたらすもの』。これにも感じるものは無く、触れることは無かった。
次に興味を惹かれたのは、隣の本棚にあった『神の守護』。一度、手に取ってみた
千栄理だが、本が分厚く重いので、読むのは諦めるしかなかった。
「あ……!」
更に奥の本棚で
千栄理は見つけた。その本を見た瞬間、彼女の中に稲妻のような衝撃が走って、思わず声を上げた。これだ、と正に天啓を得たと思った
千栄理は迷わず手に取った。丁度、彼女の手に収まるくらいの大きさだ。厚さはまあまああるが、邪魔にはならない。タイトルは読めない言語で書かれており、パラパラと捲ると、やはり彼女には読めない文字で書かれている。蔓の装飾が印刷された紙面にそんなに行数は無く、何となく詩文のようだと
千栄理は思った。
「私、この本にします」
「…………本当に良いか?」
「はい」
即答した
千栄理に、オーディンはもう一度口を開いた。
「何故、その本を選んだ?」
「お前に読める本は他にもあるだろう」と純粋な疑問を投げかける彼に、
千栄理は「直感なんですけど……」と選んだ本人もどこか不思議そうな顔をして、理由を口にする。
「私、もっとポセイドンさんの役に立ちたくて、心の中でポセイドンさんの力になりたいですってお願いしながら、見てたんです。そうしたら、この本を見つけてピンときて――。私、自分の直感を信じます」
大事そうに本を抱き締める
千栄理を見て、オーディンは一度だけ頷くと、「そうか」とだけ言ってまた彼女の頭に触れた。先程の神として人に触れたと思わせるようなものではなく、今度は娘や孫を可愛がるかのような優しい手つきに、鴉達は驚愕して主人を見つめ、
千栄理は照れくさそうに笑った。
「オーディン様、ありがとうございます。それで、この御本は何の言葉で書かれているんですか?」
「……え? お前、読めねぇのにそれにしたのか?」
「直感で選んだので。えへ」
「それはルーン文字と言って、我ら北欧の神々やかつては人間も使っていた言語です。まぁ、文字が読めなくても心配はいりませんよ。オーディン様より、お前にだけ許可が下りるでしょう」
「許可、ですか?」
「お前にやったモンをお前が使えなくちゃ意味ねぇだろ? だから、オーディン様のお力で特別に読めるようにしておいてやる。だから、調子乗って使いまくるんじゃねぇぞ」
「お前なら、大丈夫だと思うけどな」と最後に付け足すフギン。ムニンからも「その本は癒しの力が込められた本です。大切になさい」と有難いお言葉を貰った。癒しということは怪我や病気を治したりできるのだろうか。これでポセイドンの力になれるかもしれないと、どこかうきうきした様子の
千栄理を連れて、オーディンは来た道を戻った。
王の間に戻り、
千栄理が改めて礼を言うと、オーディンの代わりにフギンとムニンがもう一度、悪用してはならないと言い聞かせる。それに表情を引き締めた
千栄理は「はいっ」としっかり返事をして、恭しく一礼してから退室した。
千栄理が出て行ってから、フギンとムニンは未だ心配そうに互いに相談していた。これまで神から授かった物を手にした人間がろくな行いをしてこなかったこと、使い方を誤って命やそれに相当する大切なものを失った人間がいたことなど、互いが互いの知識を以って
千栄理は果たしてどのような使い方をするかで白熱していくのだった。
王の間から出て、思い立った
千栄理は、ロキに会いに行くことにした。いつも口では意地の悪いことを言ってくる彼だが、何だかんだ助けて貰ったり、話し相手になってくれたりした。ポセイドンとプロテウスを除けば、いつの間にか一緒にいる時間が一番長い神だ。ロキにも挨拶をしてから帰ろうと、玄関を目前にして、
千栄理はいつも案内してくれる老執事に彼の居場所を訊こうとしたが、その必要は瞬時に無くなった。
目の前の老執事の姿が歪み、ロキ本来の姿に戻ったからだ。
「呼んだ~?」
「呼びましたよ」
ロキと関わっていくうちに何度、この変身能力で驚かされたか分からない
千栄理は、もうすっかり慣れてしまった。最早、全く驚かなくなってしまった彼女の様子に、ロキはつまらなさそうに「あっそ」とだけ言う。
「で、何の用?」
「帰る前にロキさんにご挨拶したかったので」
「……は? それだけ?」
少々間の抜けた顔をするロキに、あっさり
千栄理は「はい」とだけ返す。それに対してロキははあ、とわざとらしく溜息を吐き、「何そのしょーもない理由」と付け足す。その態度に今度は
千栄理が「挨拶しなかったら、しなかったで怒るじゃないですか。ロキさん」と不満そうに唇を尖らせる。
「……別に怒んないし」
「嘘ですよね。前、ご挨拶しなくて帰った後、ずっと言われましたから」
言われたというのは、直接彼に言われた訳ではなく、小さな噂程度に「
千栄理ってああいうとこだよねぇ~」と嫌味を流されたことで、――その後、
千栄理が謝るまで続いた――ロキは「こまかっ」と小さく零した。そこで漸く彼は
千栄理がどこかで見覚えのある本を持っていることに気が付いた。
「ねぇ、何それ?」
「あ、これですか? さっきオーディン様に戴いたんです。地下の書庫で一冊だけプレゼントしてくださったんですよ」
「ふぅ~ん……それ、怪我とか病気を治す本じゃん」
「そうなんですか? ムニンさんにも癒やしの力がある本って教えて頂いたんですけど、やっぱりそういう効果のある本なんですね」
「うん。昔、戦争してた時、オジ様がその本使ってたとこ、見たことあるし」
「戦争の時……そうだったんですか」
どこか痛ましい表情を浮かべて本を見つめる彼女に、ロキはにやりと笑って「なに? 怖くなっちゃった?」とからかう。それに「もうっ、また茶化して」と少し怒ってから
千栄理は呟いた。
「いえ、神様ですもんね。大昔は戦争もしたと思いますし。でも、この御本は負傷した神様を癒す力があるんです。有り難いことですし、大事に使わせていただきます。きっと、これで少しはポセイドンさんの力になれると思いますし」
「なんでそんなにあの神の力になりたいの? ポセイドンさんは超強い神だし、ギリシャの主神だし、君はただの人間なんだし、手っ取り早く守って貰っとけばいいじゃん」
ロキの疑問に
千栄理はとんでもないと言いたげな顔で「そういう訳にはいきません」と否定した。
「守って頂くのが当然だなんて考える人にはなりたくないです! だって、それは感謝の気持ちを忘れてしまうことと同じじゃないですか! それに、私達はもう他人同士じゃないので、ちゃんとお互いを尊重して、助け合っていける関係を作りたいです」
「助け合う、ねぇ……」
千栄理はともかく、あの神がそのような関係を望むとは、ロキにはどうしても思えなかった。あのパーティで見せた
千栄理に対する狂気的な笑みと純粋とも思える独占欲。彼女にはポセイドンの感情の欠片も分かっているようには見えない。そんな目に見えないものが多すぎるこの二人にはそんな関係など夢のまた夢。
千栄理の反応から、ロキはそう断定して思考から切り捨てた。
「できたら、いいね」
「はい。私、頑張ります!」
愚かな筈の
千栄理の笑みが、ロキにとってはこの上無く、眩しく見えた。