海神と恋人 25 入国審査官は初めて見る
千栄理を品定めするかのような目を向けてきたが、特に何を言われる訳でもなく、入国許可が下りた。不思議そうに審査官を見つめていた
千栄理に気付き、ヘラクレスが「許してやってくれ」と言った。
「最近、人を襲う為に不法入国しようとしたり、人に化けて入り込もうとする奴らがいてな。入国審査が厳しくなってるんだ」
「え、そんな……審査する人は大丈夫なんですか?」
「ああ、いざという時の為に彼らには防御魔道具が支給されている。持ち主の危機に反応して防御壁を作ってくれる物だ」
「良かった。なら、安心ですね」
「さ、行こう。もう一つ壁を越えたら、オレの故郷ギリシャを再現したギリシア地区がある。出口で友人達と待ち合わせてるんだ」
ヘラクレスに促されて、
千栄理はそのままもっと中側へ入る地区境の入地区ゲートへ向かった。中側の地区に入るためには、ここから領土へは入らず、壁沿いに敷かれた通路を通って大回りをし、ゲートを通る必要があるのだが、徒歩ではなく、ここからは電車に乗ることになる。
「下界と同じなんですね」
「そうだな。オレも初めて見た時は驚いた。いや、人類の科学技術は素晴らしい進化を遂げているようだ」
初めての入国でお金を持っていない
千栄理の分も切符を買ったヘラクレスは、もう手慣れた様子で改札を通り、電車に乗り込む。壁沿いを静かに速く走る電車の窓から外を眺めていると、
千栄理はあることに気が付いた。
外壁の中にも同じような白い壁があり、そのことを隣に座っているヘラクレスに訊くと、彼は簡単に説明してくれた。彼の話によるとこの国は地区ごとに区切られているのだそうだ。やはり、住民毎に住み慣れた環境・気候が大きく影響するせいか、どうしても国境に代わるものが必要ということになり、外壁の強度を高める意味でも壁が造られた。現在ではニコラ・テスラ率いる科学者集団によって造られた気候再現技術により、現在の下界の気候に合わせて生活している。昼夜は同じくしていて、気温や湿度は各地区毎に異なっていても、肉体を持たない天界の人間達は気温差によって体調を崩したりはしないらしい。ただ、金銭という概念は存在しているせいで、犯罪が消えた訳ではない。だから、地区を越える場合も荷物と身体検査、身元の確認は必要なのだそうだ。しかし、神であるヘラクレスは神としての特権があり、それらをしなくても地区に自由に出入りできるが、彼は敢えて諸々の検査を受けてから入るようにしているのだという。
「特権は使わないんですか?」
「不公平だろう? オレはたとえ、神でも人間達の生活を守るために、検査を受けるべきだと思う。ここは彼らの国だ」
予想通り、正義感溢れるヘラクレスの返事に
千栄理は尊敬の念を覚え、「そうですよね」と嬉しそうに同調した。丁度、目的の駅に着き、電車から降りる。駅を出た
千栄理を迎えたのは、イタリア地区のどこかドールハウスのような雰囲気を持つ、カラフルで小洒落た街並みだった。生前は海外旅行なんて行けなかった彼女は「わぁ」と些か子供のように興奮して眺めつつ、歩幅の大きいヘラクレスに一生懸命付いて行く。ここからまた別の地区へ入ると聞いた
千栄理はふと、少し気になったことを訊いてみることにした。
入地区の手続きにはパスポートのような物は必要ではないのかと尋ねると、彼は気が付いたように「ああ」と言って、
千栄理が首から提げているカードを指した。入国手続きをした際に渡された物だ。身分証明カードのようで、
千栄理の顔写真が入っている。彼の話によれば、これがあれば地区間の移動はできるようだ。
「入国できた時点で、ある程度は安全な人物という判断がされているからな。それで、身元の証明にもなる。だから、ここにいる間は無くさないようにしないといけないぞ」
「はぁい」
まるで遠足に来た生徒と先生のようなやり取りに、どちらからともなくおかしそうに笑う。そんな調子で話していると、あっという間に入地区ゲートまで辿り着いた。イタリア地区の隣がギリシア地区だ。ここは『人間達の街』でも中側に位置しており、外側に面する地区はロシア地区やアメリカ地区という軍事力に長けた地区が守っている。中側の地区は主に食糧を賄ったり、芸術文化やあらゆる分野の研究施設があり、その中で先祖である古代の人々も多く住んでいる。現代の軍事力で先祖達や文化を守るため、自然とそういった分け方になっていった。
入地区手続き自体はカードを見せて顔と一致するかという確認と手荷物検査だけで、入国手続き程、時間はかからなかった。許可が下りた時ににこやかに微笑む職員に「ようこそ」と言われると、何だか嬉しくなってしまうなと思いながら、
千栄理はゲートを潜った。
「アルケイデス!」
ゲートを潜ってすぐに少年の声が聞こえたが、聞き覚えの無い声だった。見ると、こちらに近付いてくる少年達の姿が見えた。一人は小柄な金髪の少年で、もう一人は背の高い細身の少年、その隣にはふくよかな金髪の少年がいた。ヘラクレスはその三人の姿を認めると、「カストル!」と手を挙げて声をかける。どうやら、彼らがヘラクレスの友人達だったようだ。互いに駆け寄って合流すると、そこで漸く皆
千栄理に気が付いた。
「アルケイデス、そちらの方は?」
「みんなに紹介したくて、連れて来たんだ。こちらは
千栄理。元は下界の人間だが……」
そこでちょっと考えたヘラクレスはカストル達にもっと近付くようサインを送る。彼らがそれに応じると、ヘラクレスはそっと言う。
「実は、彼女はポセイドン様の恋人なんだ」
聞いた途端、驚愕に目を見開いて思わず叫んでしまった一同の口を、慌ててヘラクレスは手で覆う。その時だけ近くにいた
千栄理はびくっと肩を震わせ、道行く人々にも注目されたが、カストル達が黙ると、皆何事も無かったかのように通り過ぎていく。
「あの、ヘラクレスさん。大丈夫ですか?」
心配そうに訊く
千栄理にヘラクレスは「大丈夫だ」と何とか返す。ポセイドンの恋人だと聞いたばかりなので、まだどこかぎくしゃくしているカストル達に
千栄理は微笑んで自己紹介をした。その微笑みにカストル達はわざとらしく、ふいと視線を外してしまってから彼らも自分の名前を言った。女の子相手に珍しく照れているなと思ったヘラクレスだが、そこをからかうような趣味は無いため、何か気に障るようなことを言ってしまったのかと心配する
千栄理をさり気なく彼らから離した。
「いや、そういう訳じゃないんだが、皆照れ屋だからな。
千栄理、そろそろ歩き疲れただろう。丁度、昼時だし、どこかの店に入ろうか」
「はい。お気遣いありがとうございます」
先に歩くヘラクレスと隣を歩く
千栄理を見て、その少し後ろを歩きながらカストル達は口々にぼそりと呟いた。
「なぁ、カストル。神嫁ってみんなあんな、可愛いのかな」
「わ、分かんない。でも、凄く、綺麗な人だね」
「ああ、ちくしょー。オレも神に生まれてたらなーっ」
悔しがるふくよかな少年を細身の少年が軽く小突いて黙らせた。
近くの店に入り、ギリシャの健康的な昼食を済ませた後、ヘラクレス達と談笑しつつ、街の景色を楽しんでいた
千栄理の目に、店の前を幼い女の子が通りがかり、転んでしまった姿が映った。膝を擦り剥いてしまったようで、怪我をしたショックと痛みから泣き出してしまう女の子を見て、居ても立ってもいられなくなった
千栄理はヘラクレスに離席する旨を伝えてから、店を出た。