海神と恋人 27 建設現場に着いたヘラクレスは早速仕事に取り掛かり、
千栄理達はその間、現場付近を散策することにした。部材を運び終わったら、すぐに合流すると彼は言っていたが、結構な量があったので、小一時間はかかるだろうと踏んだ一同は、建設現場から商店広場まで戻ってくると、丁度ジェラートの屋台を見つけた。近くのベンチで休んでいるよう声を掛けてから、カストルとふくよかな少年が買いに走る。
「あ、女神様だ」
千栄理を見つけた一人の少年の声を皮切りに、周囲の人々も彼女の存在に気付き、有り難がりながら寄って来る。殆どの人々は有り難そうに彼女に握手を求め、細身の少年が止めようとするも、
千栄理は律儀にそれに応じる。しかし、中にはやはりさっきと同様、怪我を癒して貰おうとやって来る人々はいた。断るのも気の毒に思った彼女は、その人々に治癒の魔法を施すと、益々、人々は彼女を崇め始める。そのうち、一人の屈強な男が傍に来て
千栄理を担ぎ上げ、「女神様に祝福を!」と叫ぶと、周りの人々も同じように歓声を上げた。
「うわあっ! どうしたんだ!?
千栄理さん!」
四人分のジェラートを手に戻って来たカストル達は、ちょっと目を離した隙に
千栄理が崇められている光景を目にして、慌てて彼女を回収しようとしたが、彼女の周りに集まっている人の壁が邪魔をする。人の波を割って進む中、カストルは「
千栄理は人間だ」と声を上げるも、人々はまるで聞く耳を持たない。このままでは埒があかないと判断したカストルは仕方なく、皆に聞こえるように声を張り上げた。
「みんな、控えて! そのお方は海神ポセイドン様のご寵姫だぞっ!」
人の波に揉まれるカストル達を見て、
千栄理も自分を見つめる人々に道を開けて欲しいと願おうとしたが、それより先に彼がこう叫んでしまった。彼の言葉を聞いた群衆は静まり、ざわざわと互いに何事か話し合っている。その隙を突いてカストル達は
千栄理と合流できた。彼女を中心にした群衆の中の誰かが声を上げる。
「アムピトリテ様! ポセイドン様が好きな女神様なら、アムピトリテ様だよね!」
その声に群衆は納得し、次第に
千栄理をアムピトリテと呼び始めた。何とか止めさせようとするカストル達に構わず、群衆は「アムピトリテ様に祝福を!」と口々に言う。いつしかその声は大きな波となって、彼女を称え始めた。何だか大事になってしまったと困り果てる
千栄理達だった。
群衆の中から離れた一人の少年は、広場とは反対方向に歩き去り、路地裏へさっと入る。
千栄理をアムピトリテと言い出した少年だ。白く短い髪を揺らして、好奇心の強そうな目をしている。しかし、狭い路地に入った途端にその目つきはずる賢いものになった。
「珍しく、下層に降りるって言うから何をするのかと思ったら……そういうことだったんだ」
少年の背後の陰からぬるりと出てきたのは、蝿の王ベルゼブブだった。普段、自分の研究施設から滅多に出てこない神が天界の下層に降りるなど珍しい。関わる者全て死に至らしめると言われているこの神を見ても、少年は臆するでもなく、ごく当たり前に彼に向かって口を利いた。
「んふふ。どうでした? ブブくん。ぼくの演技もなかなかでしょ? 何にも知らない無垢な少年って感じで」
「うん、あざとかったよ」
「その減らず口はいつになったら、黙るんですかねぇ?」
「黙らないから、減らず口って言うんでしょ。キミってバカ?」
本人曰くの無垢な少年から羽が生え、ポケットから出した白い輪を頭上に戻せば、そこにはいつものベリアルがいた。背の高いベルゼブブと同じ目線になるように浮いてメンチを切る。
「だったら、今すぐ黙らせてやりましょーか?」
「やれるものなら、やってみなよ」
「やってもいいけどよぉ。その場合、すぐ兄者に見つかるぜ?」
彼らの間に割って入ったのは、一見して機械人形のようだった。顔、体、両腕と両足に至るまで、全身鎧のように造られた機械の体とところどころに垣間見える生身の体。虫を模したアーマードスーツに身を包んでいる。ベルゼブブとベリアルがそちらを見ると、機械人形の顔が蒸気を噴き出して左右に割れる。中からは男の顔が現れた。かなり人間離れした見た目の男に、ベルゼブブもベリアルも驚くでもなく何も言わず、男は続ける。
「別にオレぁ、報告しても良いんだけどよ。下層で暴れたなんて聞いたら、兄者が何て言うか、なぁ?」
にやりとあくどい笑みを浮かべる男に、そこで漸くベリアルが動いた。にぱっと明るい笑顔を浮かべて男の傍まで飛んでいく。
「嫌だなぁ、アダマス様ってば。ぼくら、こう見えて仲良しなんですよぉ?」
「止めろ、てめぇの『様』呼びはまるで敬意を感じねぇ。気色悪ぃ。兄者がお前らを二人っきりにするなって言った意味、漸く分かったぜ。暇さえありゃ、喧嘩してんじゃねぇか。お前ら」
「キミには関係無いだろ」
「喧嘩じゃないですってばぁ。ね? ね? だから、ハデス様に報告するのはなしですよ?」
「ちっ。誰がするかよ、そんなめんどくせぇこと」
下層でやらかしたなどと聞いたら、ハデスは弟であるアダマスもベルゼブブもベリアルも三人揃って正座でお説教コースか朝まで仕合コースだと分かりきっているので、報告はするまいと思っていた。普段は仲が悪くても、こういう時は案外と協力する三人だった。ハデスに知られることは無いと分かったところで、ベリアルは続きを話し出す。
「ぼくが火を点けたので、あんな人間の多い場所な上に、こんな狭くて退屈な国、どんどん広がりますよ。これで人間共があの子を女神として崇めれば、崇める程、彼女は神としての地位を築き、あのまま置いていれば、下層の秩序を守るため、ゼウス様から神になるようお許しが出ます。そうすれば、ポセイドン様もハデス様も、そして、ぼくらもご褒美が貰えて万々歳です! ぷふふ。ほんっと人間って単純で助かりますよ」
「後は放って置いて、次の段階を待てばいい」と余裕を持つベリアルに、ベルゼブブとアダマスは、小馬鹿にするように鼻で笑った。
「上手くいけば、な」
「キミの計画、今のところ、失敗率の方が高いし、信用に値しないけど」
「ほざいてなさい、大道具くん達」
「誰が背景の木だ」
「今度こそ上手く行きますよ。なんてったって、次はこのぼくが直々にあの子を相手にしてやるんですから」
満足そうに笑い続けるベリアルに、二柱の神は特に何の反応も返さなかったので、ベリアルに「そこはもっとこう、何かあるでしょう!?」と突っ込まれた。
元々離れていた国同士が一つ所にあるということは、人々の間に広まる噂というものも、広がるのは速い。ニコラ・テスラとエジソンが共同開発した現代の利器すらあるのだから、その速さは尋常ではない。ギリシャの隣地区であるイタリアに始まり、あっという間に広がった「治癒の女神」の話は、人の口や文面を介して着実に神としての女性像を成していった。怪我でも心の病でも、たちどころに治してしまう美しい女神の話は、ギリシャ地区から遠いアジア圏にも流れ込んできた。国民の間で囁かれる噂はいつしか権力者にも届き、皆が女神を独占したいと考えた。ある者は国のため、またある者は己の欲のため、またある者は金のため。噂を聞いた人々は皆口々に同じ質問をする。
「して、その娘とはどのような者だ?」
噂を聞いた中国始まりの王、始皇帝もその一人だった。彼は今現在、中国地区の統治を任されている。目元を覆う布の向こうで、彼の目がきらりと光ったように見えた。