海神と迷子 26※※ご注意※※
・キャラ崩壊
・オリジナル設定の群れ
以上のことを踏まえて、それでも大丈夫という方は、次ページへどうぞ
老執事がトールに一礼すると、彼は肩に担いでいた大きなハンマー、最早巨大な鉄槌と言った方が相応しいそれを下ろし、ヘラクレスに向き直る。その屈強な肉体と高い身長、何よりその手に持っている武器に千栄理は本能的に畏怖し、一歩後ろへ下がる。
「ヘラクレスか……」
「失礼します、トール様」
「何用だ……」
「オーディン様並びにトール様へパンの配達に参りました。それと、件の娘からトール様へご挨拶を」
「……ああ、ポセイドンか」
言葉少なに会話を終えると、トールは千栄理の方へ視線だけを寄越す。その鋭い目に千栄理はびくりと全身を震わせ、不安そうにぎゅっと片手を握るも、彼女もトールから視線を外そうとはしなかった。ヘラクレスに近くに来るよう呼ばれて、漸く彼女は何とか足を動かすことができた。ぎこちない足取りで彼の隣に来ると、上手に笑えているのかどうか自信が全く無い笑顔のようなものを浮かべて名乗ってみる。しかし、トールの表情は全く変わらず、無表情を貫き通している。加えて容赦なく伸し掛かる重い沈黙と暗い空気に、千栄理はもうどうしていいか、分からなかった。ただ足が棒になってしまったかのようにそこから一切動けないでいる。トールはふいと興味を削がれたように視線を外し、鉄槌をもう一度肩に担いで一行を通り過ぎて行く。去り際、彼はぽつりと一言だけ残して行った。
「ゆっくりして行け」
その言葉からもしかして、話すのが苦手なだけで良い神様なのではと思った千栄理だったが、彼の背中に何か一言掛ける気にはなれず、ただ深々と頭を下げた。ヘラクレスに声を掛けられるまで彼女はその場で頭を下げていて、はっと気が付いて老執事の後を追う。この城はかなり大きく広く、部屋の種類も様々にあるようだったが、そのどれもが扉は固く閉ざされている。老執事は流石に迷うことなく、複雑な城の中を進み、数多ある部屋や通路を通った先、その最奥にオーディンの玉座はあった。それまでの部屋は天井が高く、色とりどりの装飾品や調度品で飾られ、豪華なシャンデリアなどが目を惹いていたが、オーディンの玉座の間は恐ろしく簡素で寂しい部屋だった。
一面、灰色の部屋だ。天井は一際高く、吹き抜けになっているが、窓は小さく、日光も最低限にしか入って来ない。薄い太陽光線は辛うじて玉座に座するオーディンの顔が分かる程度だ。唯一、色らしい物は玉座に真っ直ぐ敷かれた赤い絨毯のみだった。ヘラクレスは千栄理を連れて彼の前まで歩み寄ると、跪いて頭を下げる。千栄理も倣って同じようにした。
「おうおう、パンの配達だって? ヘラクレス! お前がやる仕事じゃねぇだろ? カァ!」
「はて、そちらの人間は何です? オーディン様への贄ですか?」
ばさばさと興奮したように羽根を広げて口を利いたのは、オーディンの両肩に乗っている黒と白の鴉達だった。妙に高い声に思わず、頭を上げそうになった千栄理だが、何とか堪えていると、ヘラクレスが事情を説明し、鴉達も心当たりがあるのか、ぎゃあぎゃあとまた騒ぎ始める。ヘラクレスが千栄理に挨拶するよう声を掛け、オーディンの代わりに鴉達が顔を上げるように言ってから、千栄理はゆっくり彼を見上げた。
「その者がポセイドン様が召し抱えた者ですか」
「どんな奴かと思ったら、すげぇ普通の人間じゃねぇか! 特別な才能も無ければ、力も無い! 天界でもそこら辺にいる雑魚と同じ匂いしか感じねぇ!」
「一体、ポセイドン様はこんな人間のどこに惹かれたのでしょうなぁ」
ひどく失礼な鴉達に千栄理は泣きそうになったが、ヘラクレスの方を見ると、「気にするな」と言いたげに微笑んでくれるので、何とか耐えることができた。千栄理が名乗ると、やはりオーディンは一言も発することなく、鴉達が答えた。
「へっ。お前の名前なんてどうでもいいんだよ!」
「ええ。精々、オーディン様に覚えられるくらいになってからにして欲しいものですね!」
「……」
何も答えない千栄理に、鴉達は勝ち誇ったように嗤う。しかし、それも長くは続かなかった。
「え?」
「あ、やべ……!」
じわり、と千栄理の目に涙が滲む。彼女とて分かっているのだ。自分がポセイドンにとって何一つ利益をもたらさない存在だと。取るに足らないものだと。でも、彼女は彼女なりに彼の為と思って行動しているつもりだ。悔しかった。鴉達に好き勝手に言われても、反論できない自分が情けなくて、辛かった。流れる程ではないが、ぐすと鼻を啜り、嗚咽を我慢しているような声がし、鴉達は意外なことに明らかに狼狽し始めた。
「い、いやっ、何泣いてんだよ。何も泣くこたねぇだろ」
「これ、私達が悪いんですかねぇ……?」
「なんでだよ。本当のこと言っただけじゃねぇか」
「静まれ」
突如、この場に聞いたことのない、腹の底に響くような重苦しい重圧と共にその言葉はオーディンの口から発された。途端に鴉達は冷や汗を流しつつも黙り込み、頭を下げる。千栄理も涙は引っ込み、思わずその場にへたり込んでしまう。それを見ると、オーディンは再度口を開いた。
「用を済ませ、立ち去れ」
「は……はい……」
ヘラクレスが千栄理の代わりにオーディンへパンを差し出し、鴉達が選別する。その間、千栄理は居住まいを正すことしかできずにいた。自身の恐怖に負け、情けなさに負け、もうこの場で声を上げて泣きたいくらいだったが、彼女は必死に耐えた。居た堪れなかった。トールの分も取ったオーディンはヘラクレスを下がらせ、出て行くよう促す。ヘラクレスと千栄理はもう一度礼をし、そそくさと玉座の間を出て行った。自分達とオーディンしかいなくなり、鴉達はあの人間について思い思いに発言する。
「いやぁ、あそこで泣かれた時は正直、終わったと思った」
「そうですねぇ。あの人間自体はただの脆弱な人間ですが、抹消すれば、どうなることか」
「……いや、普通、ただの人間にあそこまでするかぁ? 過保護ってレベルじゃねぇぞ」
「いえ、それとも……あれが、ポセイドン様の出した答えなのかもしれませんね」
その後もああだこうだと議論を重ねる鴉達を放っておいて、オーディンは手にしているパンをじっと眺めていた。
玉座の間へ続く扉の前で待っていたらしい老執事に、帰る旨を伝えると、彼はまたしても無言で案内を始めた。また来た道を戻り、もう少しで玄関ホールへ出るというところで、不意に背後から鋭い声で呼び掛けられた。振り返ると、そこにはトールの姿があった。鉄槌は持っていない。どこかに置いて来たのだろうか。
「ヘラクレス、我が父がお前に用があると」
「オレに、ですか。……分かりました。千栄理、先に外に出ていてくれ。すぐ戻る」
「はい、分かりました」
すっかり空になって軽くなった荷物を受け取り、千栄理は走り去っていくヘラクレスの後ろ姿に手を振る。彼も同じように返しながら、通路の角を曲がって行った。トールはそれ以上何も言わず、静かに歩き去る。距離があったお陰か、お礼を言うと、一瞬だけこちらを振り返り、ふ、と僅かに口端を緩ませた。玄関ホールの方へ向き直ると、老執事は既に外へ通じる扉を開けて待っており、千栄理は待たせてしまった申し訳なさから謝りつつ、最後にまた礼を言って出て行った。