海神と恋人 18 勝負をするには、海に出る必要があるということで、皆ゼウスの宮殿からほど近い海辺に集まっていた。辺りはすっかり暗くなり、星々が輝いている。火の神達が立てた松明に照らされ、穏やかな波を寄せては引いてを繰り返している夜の海は、エナメルのような赤い光を翻す。一体、ここでどんな勝負をするのか、
千栄理は神妙な面持ちで水の精と対峙した。
彼女も黙って
千栄理を見つめていたかと思うと、徐に口を開く。
「勝負は一回のみ。イルカをより多く呼び出せた方の勝ちとします。それで宜しいかしら?」
「イルカ……。はい! 分かりました。その勝負なら、危なくないし、良いと思います!」
まるで友人に向ける笑顔と全く同じものを向けられ、水の精は「調子が狂うわね……」と零しつつ、審判を誰に頼もうかと周りの神々を見渡し、募った。
しかし、誰も名乗り出ない。それもその筈、少し考えてみれば、簡単なことだ。もし、
千栄理が負けるようなことがあれば、怒り狂ったポセイドンが自らの寵姫の為に槍を振るうかもしれないと思うと、皆互いに顔を見合わせるばかりでやりたがらない。すると、大勢の神の中で名乗り出るように一歩、前に出た一柱がいた。その神に、周りの神々が皆驚愕に目を剥いた。
「お……オーディン様っ!?」
意外な神が名乗り出たことで浜辺は騒然となったが、他ならぬオーディン自身の手で制される。水の精は彼の前に傅きながらも止めようとする。
「恐れながら、このような個人的な勝負事にオーディン様のお手を煩わせる訳には……」
「良い。始めろ」
有無を言わせない重苦しい言葉に、水の精も
千栄理も、周りの神も何も言えなかった。ただ、
千栄理はオーディンの真意が分からず、不思議そうな顔で彼の顔をじっと見つめるも、オーディンは何も言わなかった。フギンとムニンに「早く配置につけ」と急かされ、仕方なく彼女は海へ向き直る。今夜の海は波もひどく穏やかで、凪いでいる状態に近い。海、と言えば自分の恋人が思い浮かび、彼女はポセイドンの方へ目を向ける。
彼はいつもの無表情で、静かに
千栄理を見つめ返していた。ここからでは距離があるせいか、彼の真意もまた分からない。けれど、海が凪いでいるということは、きっとポセイドンもいくらか落ち着いているのだろうと思った。
ここからイルカを呼ぶ勝負だが、浅瀬はもちろん、沖の方にもイルカの影すら無い。一体、どうすればいいのかと悩んでいると、少し間隔を空けて立っていた水の精が海に向かって歌を歌い始める。
その歌は
千栄理がこれまで聴いたどの歌よりも澄み、どの歌声よりも美しかった。その歌に勝負のことも忘れて聞き惚れてしまうと同時に、同じ方法では決して彼女に勝てないとも思う。
本人に自覚は無いが、
千栄理は今でこそ、人間にしては稀有な美しさ、愛らしさを持っている。しかし、それはあくまでも『人間にしては』という領域を出ない。女神や妖精の彼女に比べたら、平凡だ。己の力で手に入れた訳ではなく、ただ与えられただけのもの。そんなものを武器にしてみたところで、全く太刀打ちできないのは、火を見るより明らかだ。それに、と
千栄理はポセイドンを見つめて思う。彼の隣に立つ女性なら、彼と同じことができなければならない。いざという時、隣に彼がいなくても、眷属を従えるくらいの力を持った女性でなければ、到底勤まらないだろう。
そうこうしているうちに、水の精の歌声で沖から現れたのは、三頭のイルカだった。つるつるした背中と背鰭を波間から時折覗かせながら、水の精の近くに集まると、彼女の歌に呼応するように可愛らしく鳴く。イルカ達が自身のところに集まってくると、彼女は歌を止め、一頭一頭の体を撫でてやった。見事な腕前に周りの神々が彼女へ拍手を送る。得意気に微笑み、水の精は
千栄理へ向き直った。
「さあ、私は三頭呼べたわ。次はあなたの番よ」
「は、はいっ……」
いよいよ
千栄理の番が回ってきた。どうやってイルカ達を呼べばいいのか、今まで全くやったことの無い彼女には、見当もつかない。イルカはポセイドンの御使いだが、ただの人間である
千栄理の言うことなど聞いてくれる筈も無い。どうしようと戸惑っていると、ふと、先程考えたことに何か引っかかりを覚えた。
「ポセイドンさんと同じこと……」
いつだったか見たことがある。居城の近くにある浜辺に立っているポセイドンがある方法でイルカ達を呼んでいた光景。あれなら、一頭くらいは来てくれるかもしれないと思った
千栄理は、一か八か賭けてみることにした。
遠く、水平線を見やる。まだイルカの影は見えないが、やるしかない。
千栄理は両手を後ろに組み、唇をすぼめてあるメロディをなぞり始めた。
「あれは……」
聞き覚えのあるメロディに、ポセイドンとハデス、ゼウスを始め、ギリシャの神々が瞠目し、
千栄理を凝視する。口笛を吹きながら、「来て」と念じていると、沖の方で何かが鈍く光った。月明かりに照らされたそれは波を掻き分け、段々とこちらに近づいてくる。ざぱんっ、と勢いよく飛び上がったその姿は、二頭のイルカだった。
「ほんとに来た……」
かかる波など物ともせず、
千栄理の前に来た二頭は言葉を話すようにきゅうきゅうと鳴く。わざわざ来てくれた二頭を労おうと、
千栄理も彼らを撫でようとしたが、差し出された手から二頭は少し逃げてしまう。やはり野生のイルカだから、人に慣れていないのかと思ったが、そうではなかった。
はっと
千栄理は、遠くの沖を見た。ここからでは見えないところから微かにイルカの悲痛な声が聞こえたような気がした。
「ふ?ん、あなたは二頭なのね。人間にしてはよくできた方なんじゃない? 私には敵わないけ、ど……。ど、どこ行くの?」
水の精が戸惑うのも当然で、
千栄理は彼女を無視して海の中へ足を踏み入れる。ドレスの裾が濡れるのも一切気に留めず、彼女はざぶざぶと進んで行く。
「ちょ、ちょっと! 危ないわよ! 人間が夜の海に入るなんて!」
水の精に呼び止められ、そこで我に返った
千栄理は浜辺にいるポセイドンとハデス、ゼウスの方へ向き直り、確かに言った。
「ポセイドンさん、ハデス様、ゼウス様。……ごめんなさい」
「
千栄理? 何を――」
それだけ言って
千栄理は沖を目指し、泳ぎ始めた。突然の行動に、水の精はもちろん、周りの神々も慌て出す。名前を呼ぶゲルの声やハデスの「戻って来い!」という声を振り切って
千栄理はただひたすら泳ぐ。水を吸って色が変わったドレスが重く、動きづらい。何故かは分からないが、そうしなければならないと彼女は感じていた。しかし、人間が泳ぐ速さなど、たかが知れている。重いドレスが邪魔して思うように進めない。だが、
千栄理の中で『戻る』という選択肢は無かった。それどころか、早く辿り着かなくてはという焦燥が、彼女の身体を前へ前へと突き動かす。堪らず、助けに行こうとしたハデスの肩をポセイドンが掴んだ。
「ポセイドン、何のつもりだ? あれでは、
千栄理が死んでしまうぞ」
「手を出すな、兄上。彼奴にも聞こえているのかもしれぬ」
「聞こえる?」
「……余と同じものが、な」
ポセイドンの言葉に、ハデスはあることに気が付いた。よく見ると、周りの神々の中で海を司る神々だけが、ポセイドンと同じように黙って静観している。自分には聞こえずとも、弟には聞き取れる『何か』を
千栄理は感じているのかと、ある一つの可能性に彼は怖気にも似たものが背筋を掠めていくのを感じた。