海神と恋人 39 千栄理が自分の少ない荷物をまとめ終わって朝食を食べに行こうとした時、ハデスの従者からポセイドンが着いたと報告を受ける。電話を終えてからまだ数分も経っていない。朝食は後にして荷物を持ち、
千栄理は従者と共にハデスの許へ案内してもらった。
「ああ、ほら、お前の恋人が来たぞ」
執務室にも自室にも、ハデスの姿が無かったので、
千栄理はエントランスへ通される。従者の予想通り、そこには彼女を迎えに来たポセイドンと仕事のことで、立ち話をしている彼がいた。二柱と合流すると、
千栄理は真っ先にポセイドンの前まで来て、笑顔を見せたが、ポセイドンは何も反応を返してこなかった。電話口での様子からも今の彼の状態が気になっている
千栄理は「ポセイドンさん?」と顔を覗き込む。
彼の両目の下には濃い隈ができていた。随分寝ていないと分かる程のもので、それも明らかに一日や二日どころではない。よく見れば、ほんの少しふらついている。再会の喜びから一転して心配し、彼の手に触れる
千栄理に、ポセイドンは小さくもはっきりと言った。
「触るな」
「え? ポセイドン……さん……? どうして――」
「触るな、と言っている」
ぺしっ、と本当に軽く、だが、
千栄理を傷付けるには十分すぎる程の弱々しい力でポセイドンは彼女の手を拒絶した。ふい、と顔も背けてしまった恋人に彼女がどうしたらいいのか戸惑っていると、見かねたハデスがポセイドンを促す。
「ポセイドン、それだけで
千栄理に伝わると思うのか。ちゃんと理由を話すべきだろう」
このまま帰してはまたすぐここに戻ってくることになりそうだと思ったハデスは、念を押す意味でもそう言ったが、ポセイドンはきゅっと唇を引き結んで静かに拒絶する。しかし、ハデスは止めなかった。
「ポセイドン」
静かに、だが、有無を言わせない語調にとうとう観念したポセイドンは
千栄理から顔を背けてポツリと呟いた。
「…………今、お前に触れたら、どうなってしまうか分からぬ。触るな」
よく見ると、ポセイドンはさっきからずっと両手を握って、
千栄理と手を繋がないようにしている。その拳が微かに震えているのを見て、
千栄理は少し寂しく感じると同時に、自分を大切にしてくれているのだと堪らなく嬉しくなった。嬉しさを感じると、彼を安心させたいと思い、震える手にほんの少しだけ触れる。
「触るな」
「大丈夫ですよ、ポセイドンさん。今まで通り、触っても私はそう簡単に壊れません」
「…………それでも、余は一度、お前を傷付けた。次、あのようなことがあれば――殺してしまうやもしれぬ」
千栄理が触れると、途端に震えは収まり、彼女がゆっくりポセイドンの拳を解いていけば、不思議と力が抜けてあっさりと開かれた。ポセイドンの大きな手に、
千栄理の小さな手が乗せられる。
「ポセイドンさん、見てください。ほら、大丈夫でしょう?」
あまりにもポセイドンが無抵抗なので、
千栄理は顕になった掌を、自分の頬を包むようにして宛ててみた。びくっと一瞬、その手が震えて反射的にポセイドンはこちらを見る。彼は咄嗟に手を引こうとしたけれど、その動きに合わせて
千栄理の体が簡単に引っ張られそうになったので、止めた。少しでも力を込めれば、簡単に潰れてしまいそうな柔らかさに、迂闊に動くことができない。そのまま動けない彼は、安心どころか益々眉をしかめて「放せ」とだけ言った。失敗したとは思った
千栄理だったが、手だけは繋いでいることにした。それにも少し不満げ、否、不安げなポセイドンだったが、特に何か言うことは無かった。
千栄理の方を見ようとしないポセイドンの肩に触れたハデスは、ちゃんと彼女を見ろと促す。
「
千栄理はもう以前のように、お前を受け入れている。そう臆するな、ポセイドン」
「臆してなどおらぬ」
「ならば、しっかりと己の伴侶を見よ。言っておくが、また
千栄理がここに来るようなことになったら、今度こそ永遠に引き離すぞ」
「……肝に銘じておく。行くぞ、
千栄理」
「はい。では、お義兄様。また遊びに来てくださいね」
あんなに大喧嘩をしたというのに、ポセイドンより遥かにすっきりとした顔で別れの挨拶をする
千栄理に、ハデスは思わず可笑しそうに笑って「そちらもな」と返して見送った。
ハデスの城を出て、彼の従者が牽く馬車に揺られながらポセイドンがふと、口を開く。彼が何か発言する気配を感じた
千栄理は、彼の方を向く。
「兄……とは」
「え? ――あ、ハデス様から『呼び方が堅い』って言われて、それで、お義兄様って呼ぶことにしたんです」
「そうか。……そう呼ぶ意味は、分かっているのか?」
一瞬、どういった意味で問われたのか分からなかった
千栄理だが、ポセイドンの表情を見れば、ハデスと自分の関係が変化することについての方かと予想できた。もちろん分かっているという意味を込めてゆっくり頷いた。
「はい。だって、私はもう、ポセイドンさんと婚約してますから」
「ちゃんと分かってますよ」と笑う
千栄理に、ポセイドンは複雑そうな表情のまま、「そうか」とだけ言った。
どうしたら、彼は以前のように笑ってくれるだろう。彼と再会してからの
千栄理はそればかり考えていた。自分はもう怒ってもないし、悲しくもない。けれど、ポセイドンは自分自身を許せないようだった。これが反省という意味で戒めとして記憶するなら、きっと良い効果があるだろう。しかし、今の彼はそんな気持ちが逆に自身を縛り付けているように見えた。どうにかして、彼の心を和らげることができたら、きっと元通りになる。そう信じて、
千栄理は次はどうしようと考えていた。
もう一度、彼の手に少しだけ触れてみる。未だ微かに震えはしたが、拒絶するようなことは無い。何か彼を元気づけるようなことを言おうと
千栄理は口を開きかけたが、少し思い直して何も言わないでおいた。代わりにポセイドンの両手を自分の両手で繋ぎ、握ってみる。言葉を介さずとも、「大丈夫」と彼女は伝え続けた。
やがて馬車は虹の門手前で止まり、ハデスの従者がドアを開けたところで、手を放そうとした
千栄理だが、ポセイドンに片手を引かれ、そのまま降りることになった。
「私がお見送りできますのは、ここまでとなります。それでは、ポセイドン様。
千栄理様。道中お気をつけてお帰りくださいませ」
「ありがとうございました」
無言で頷くだけのポセイドンと深々と頭を下げる
千栄理。「では、失礼致します」ともう一度、礼をして去って行く馬車を見送り、
千栄理はポセイドンと一緒に虹の門を潜った。
暗い冥界から明るい天界へ帰って来ると、空の眩しさに
千栄理は目を瞑る。そんな彼女の手を引いてポセイドンは歩き出す。
やっと目が慣れてくると、
千栄理は傍らにいるポセイドンに笑いかけた。その気配を察知して、彼も
千栄理を見下ろす。
「
千栄理」
「はい。なんですか? ポセイドンさん」
「馬車の中で、ずっと余に触れていたが……いいのだな? 余が、お前に触れても」
「もちろんです。だって私達、婚約してますから」
「ならば、もうあのようなことはするな。余も、お前を傷付けるようなことはせぬ」
「あんなこと……って?」
「もう忘れたのか?」とでも言いたげに瞠目するポセイドンに対して、
千栄理は益々きょとんとした顔をする。また別の心配が出てきたところで、ポセイドンは「他の男が贈った服を着ていただろう」と指摘する。それにはっと思い出した彼女は、「あれですか」と零した。そういえば、まだ誤解を解いていなかった。どう説明しようかと考えながら、
千栄理はポセイドンの手をぎゅっと握り返した。