海神と恋人 30※※ご注意※※
・この連載シリーズはポセイドン夢です。始皇帝夢ではありません。
それでも大丈夫という方は、次ページへどうぞ
始皇帝と並んで街中を歩いていると、道行く人達皆がこちらを一瞥し、すれ違うまで物珍しそうにじっと見つめてくる。やはり、この漢服は派手で目立つのではと、今更羞恥心が込み上げてきた千栄理だったが、ここで始皇帝の腕を取ろうものなら、妙な勘違いをされてしまうかもしれないと思い、ぐっと堪える。
それより、彼女の目を引いたのは街の景色だった。絢爛豪華な中国独特の城のような建物が桜が咲き乱れる川沿いに立ち並び、架けられた橋の下を遊覧船や貨物運搬用の舟が行き交っている。始皇帝の話では、下界の中国にある豫園という庭園を再現させたもの、ということだ。
「我が母語でユーユェンとも言う」
「ゆー?」
「ユーユェン」
「ゆーゆぇん」
自分の言ったことを素直にオウム返しする千栄理に、始皇帝は思わずふ、と笑ってしまう。「笑わないでくださいっ」とぷんぷん怒る顔も可愛らしいなと思っていると、不意に千栄理が足を止めた。
見ると、通りに屋台が出ており、その中の一軒が包子を売っている。ほかほかと立ち上る湯気とほんのり漂う甘い香りに惹かれたらしかった。日本でいう中華まんのことだ。
「千栄理、暫し待っていろ」
「え? 陛下?」
人混みをかき分けて行ったかと思うと、一人分の包子を手に戻って来た始皇帝の姿を見て、千栄理は「そんな! わざわざいいです!」と言ったが、始皇帝はしてやったりという笑みを浮かべて「そなたなら、そう言うと思ったから、買って来たのだ」と手渡した。日本の肉まんと比べると、随分大きい。両手で持っても、まだ少し余るくらいだ。遠慮しても、もう買って来てしまった物は食べるしかない。申し訳ないと思いながらも、千栄理はぱくっと一口食べた。
じゅわっと口内に広がる甘じょっぱいたれとほろほろと解ける肉の食感に、思わず笑みが零れてしまう。
「美味しい。凄く美味しいです」
「そうか。それは良かった」
「陛下は食べないんですか?」
何だか嬉しそうに千栄理が食べている姿を見ていた始皇帝にそう訊くと、彼は少し考えてこう言った。
「朕はこの通り、爪が邪魔で食べられぬ。ああ、こんな時、親切な誰かが食べさせてくれたら、良かったのだが」
試すように千栄理をちら、と見る始皇帝に、彼女はさてはこれが狙いだったかと気が付いたが、時既に遅し。このまま皇帝相手に見せ食いする訳にもいかないので、仕方なく小さくちぎって口元へ運んだ。
「もう。今回だけですからね?」
「好。やはり、そなたは優しいな」
はむ、と千栄理の手で口へ運んでもらい、咀嚼するも、味わえたのは外側の生地だけだった。
「……千栄理、肉が入っておらぬ」
「えっ!? ご、ごめんなさい。えっと、じゃあ……どうぞ」
もう一度、今度はちゃんと餡が入っている部分を分けて口へ運ぶと、そのまま手首を掴まれて、指先へ触れるだけのキスを送られる。
「へっ!?」
「うむ。美味いな」
千栄理が意識したところで、ぱっとまた何事も無かったかのように手を放される。しかし、包子を食べ終わるまでキスを送られることは無く、結局その一回だけだったが、千栄理の中でその一回の光景が却って強烈に焼き付けられた。
食べ終わったところで当然のように手を取られ、驚いて解こうとした千栄理だが、「逸れぬように」と言われてしまっては拒否できない。ただ、手を繋ぐだけで疚しいことは何も無い筈なのに、何だかひどく悪いことをしているような気がした。
街を散策する中、様々なものに興味を示す千栄理に、体験できるものや食べられる物は何でも与えてしまう始皇帝。その度、千栄理は遠慮するが、「遠慮するな」と言われて何だかんだとされるがままになっていた。散策する中でも、千栄理の力を見たいと言う始皇帝の願いを聞き、ここでも千栄理は周囲の人々に治癒の魔法を使って、女神たる所以を見せた。その後の騒ぎは始皇帝が収めてくれたので、ギリシア地区にいた時よりは大事にはならなかった。
歩き疲れて遊覧船を一隻貸し切り、桜の花びらが舞い落ちてくる川の上から景色を楽しみつつ少し休んでいると、始皇帝は厭に真剣な顔をして、話し始めた。落ちてきた花弁を掌で受け止め、軽く握る。
「……ここは栄えているから、一見、豊かに見えるが、実際は違う」
「陛下?」
「郊外に出れば貧困に喘ぎ、時には我が子を差し出さねばならぬ家もある」
その話を聞いても、今、目の前に広がっている景色とはまるで対極で、千栄理は実感としては湧かなかったが、始皇帝の言うことが事実なら、放って置けないと思う。貧しいが故に我が子を差し出さねばならない両親がどんな思いでそんなことをするのか、千栄理には上手く想像すらできないが、自分の力が少しでも役に立てれば、そんな家庭を少しでも減らせればと思う。何より、こんなに良くしてくれた彼にせめてもの、礼がしたかった。
真剣な話には同じように真剣な態度で接しなければいけないと思う千栄理は、景色を眺めていた姿勢から一転、始皇帝に向き直り、彼を真っ直ぐに見つめる。
「皇帝陛下」
「どうした。千栄理」
彼も千栄理の態度に何かを察したのか、景観から彼女の方へ視線を移す。するり、と彼の手から花弁が落ちた。そのまま二人の間に暫しの沈黙が流れる。一瞬、少し目を伏せた千栄理は、決心したように目を上げ、口を開く。
「あの、私で良ければ、その……」
「千栄理、朕の側室として、後宮に入る気はないか?」
「……え?」
予想外、否、薄々感じていたことを始皇帝ははっきりと口にした。彼女が返事をしないうちに何かに気が付いた始皇帝は続ける。
「いや、真剣な申し出だ。このままでは礼節に欠けるか」
しゅるり、と衣擦れの音をさせて、始皇帝はずっとその目を覆っていた布を取り去る。初めて見た彼の本当の顔は、思っていたより幼く見えて、千栄理は一瞬、相手が中国の皇帝だということを忘れそうになった。
切れ長で眼光そのものは鋭い光を放っているが、ふとした表情に少年らしさがある。その目つきが、彼がどのような人生を送ってきたのか物語っているようで、千栄理は思わずどきりとした。千栄理を真っ直ぐに見つめる彼は次の瞬間、ふ、と笑い、「やはり、そなたと共にいるのは心地が良い」と零す。
「どういう、意味ですか?」
「――朕の周りは様々な感情、思惑が渦巻いている。普段は隠しているが、この目は相対する者の感情や痛みを見つめると、その性質や度合いによって、朕の体に痛みとして現れるのだ」
「しかし――」と始皇帝は千栄理の頬に触れた。大きくて無骨だが、ポセイドンとはまた違う優しい手つきに熱いものを感じて、千栄理は不安げに見つめ返す。
「そなたはただ、慈悲と愛で朕に接してくれていると分かる。痛みを一切感じず、それどころか朕の心も、そなたと同じように凪いでいられるのだ」
そこで一旦、口を閉じて切なげに見つめる始皇帝。その意味を理解した千栄理は、ポセイドンへの罪悪感から視線を外してしまう。急すぎる話で、正直戸惑いの方が大きいというのもある。
「陛下、あの……私――」
その時、ひゅっと風を切る音がしたかと思うと、次の瞬間には始皇帝に押し倒されていた。突然の行動に、千栄理は驚き、焦って起き上がろうとするも、始皇帝の手によって押さえ付けられる。
「へ、陛下!? 何を――」
「千栄理、怪我は無いか!?」
直ぐ様、起き上がった始皇帝は非常に焦った様子で、千栄理の後頭部を包んで抱き寄せる。彼女に怪我が無いと分かると、彼はほっと安堵の息を吐いた。始皇帝は床に落ちていた一本のナイフを手に取り、眉をしかめる。
「それは……」
「朕やそなたを狙った訳ではないようだが、素人という訳でもなかろう」
「“安心、それが人間の最も近くにいる敵である”。仰る通りです。Sir.」
コツコツと革靴の音をわざとらしく響かせて、その影は二人の前に現れた。