海神と恋人 9 山を下りるまでゲルと手を繋ぎ、段々暗くなる山道を怖くないように二人で歌を歌って下り切ると、ゲルは元気に「じゃあ、ボクはここまでっす!」と言った。自分の帰り道のことを案じてくれるのは嬉しいが、同時に
千栄理はゲルと同じように彼女の帰りも少し心配になる。
「うん。ゲルちゃんも帰り、気をつけてね」
「平気平気っす。この道慣れてるっすから」
「じゃあ、またね」とすっかり友達同士の挨拶を交わして段々小さくなる
千栄理の背中を見つめていたゲルは、最後に振り返って大きく手を振る
千栄理に同じように返し、戻ろうと来た道を振り返る。
「慣れてる道……っすけど、明かり持って来れば良かった……」
山道へ一歩入ると、夕焼けの光は木々に遮られ、薄暗い。あまり夕方近くにこの道を通ったことの無いゲルは早くしないと、夜になってしまうと気持ちは急くが、怖気付いて足取りは重くなるのだった。
彼女が帰って来た時には既にとっぷりと日が暮れ、激しく息切れしながら何とか辿り着いたという。
一方で、
千栄理も早く帰ろうと先を急いでいた。ロキが帰ってしまったので、今日は珍しく一人で帰らなければならない。少し不安だが、何かあったら、グレムリン達やポセイドンに頼るしかないと、ネックレスを握った。ふと、地面に目をやった時、そういえば今日はヘルメスの靴を履いていたなと思い出す。ロキと練習してだいぶ上手くなったし、少しくらい道を短縮しても良いだろうと、
千栄理はいつものように飛ぼうとした。体が宙に浮き始め、ふわりと地面から両足が離れる。今までの彼女なら、バランスを崩しそうになる高さまで浮いたが、今日はまだまだ上空へ行けそうだ。もしかしたらこのままポセイドンの城へ飛んで行けるかもしれないと思った
千栄理は、思い切って空を蹴り、高く飛び上がる。
上空からは辺り一帯が見渡せた。手前には森が広がり、その向こうには川沿いにあるヘイムダルの家が見える。確か彼の家の向こうから来たんだったとアタリをつけて
千栄理は前へ進もうとした。しかし、突如吹いた向かい風によって彼女の体は後方へ大きく吹き飛ばされ、くるくるときりもみ状態になったまま、大きく進路を逸れた
千栄理は一際大きな木に受け止められた。
「痛ぁ……びっくりしたぁ」
全身に擦り傷は作ったが、何とか大怪我は防いだ。が、果たして自分は今どこにいるのか、皆目見当もつかない彼女は取り敢えず、木から降りようと、まず着地点を確かめようとして、またしてもそのまま落ちた。
「わやぁああああっ!?」
硬い地面にぶつかると思い、咄嗟に目を瞑った
千栄理だが、反面、地面よりは何か柔らかいものに受け止められた。あまり痛くない体に不思議に思っていると、頭上から男の声がした。
「来るのは分かってたけど、また派手に登場したね。
チェリちゃん」
見上げると、そこには青みがかった金髪をお団子のように纏め、サングラスを掛けた福耳の若い男の顔があった。どこかで見たことのある男の印象に、思わず
千栄理は小さく呟く。
「お……釈迦、様……?」
「あれ? オレ、キミに会ったことあったっけ?」
「え? あ、すみません。その……お耳が……」
「ああ、これ? そっかそっか、確かに。触る?」
突然のスキンシップのお誘いに、戸惑いながらもやんわり断ったところで
千栄理ははっと我に返った。初めて見る男に受け止められたのだと気付くと、途端に恥ずかしくなった
千栄理は、「失礼しました!」と言って慌てて下りようとしたが、それより早く男が流れるような手さばきで彼女をそっと地面に立たせてやる。
「怪我無い?」
「は、はい。大丈夫です。……あの、ありがとうございました。お釈迦様」
「ん。食べる?」
ずい、と差し出されたのは棒付きの飴だった。包装紙には
千栄理もよく知る有名メーカーの商品名を捩ったような名前がポップな文体とカラフルな色で書いてある。
「ごめんなさい、お夕飯前なので」
「そっ?」
断ると、釈迦は別段気にした様子も無く、包装紙を剥がして口に入れた。それを見て、
千栄理は先程から気になっていたことを訊いてみる。
「あの、お釈迦様、さっき来るのが分かってたって……」
「視えちゃうからね、そういうの。じゃ、夜道危ないから行こっか」
「へ?」
「家、帰るんじゃないの? それとも夜遊びしてく?」
「どっちでもいいけど」と軽く言う釈迦に
千栄理は迷わず「帰ります」と答えた。もう辺りはすっかり暗くなってしまっている。一人で帰るには少し心細いと思い始めていたところに釈迦と出会えたのは幸運だったようだ。帰ろうと辺りを見回したが、見覚えは全く無い。釈迦と自分の背後には木の根同士が集まってできたような有り得ない程太い木が一本佇んでいて、目の前には色とりどりの花畑が広がっている。釈迦の周囲には蝶や蛍が集まり、一目で人間ではないと分かる神秘的な雰囲気を纏っている。場所と相まってどこか現実離れしていて幻想的だが、見覚えの無い場所に少し不安になった
千栄理は自分より遙かに背の高い釈迦を見上げた。
「あの、ここは・・・・・・」
「こっからポセイドンちゃんの家ってなると、結構歩くよ。オレが送るか、迎えに来てもらった方が良いんじゃない?」
一瞬、迎えに来てもらおうかと考えた
千栄理だが、ポセイドンの手を煩わせる訳にはいかないと思い、「すみませんが」と切り出して釈迦に送ってもらう方を選んだ。釈迦は一瞬、意外そうに瞠目したが、特に言及することもなく、「じゃ、行こっか」と言ってさっさと歩き出した。その後を
千栄理は付いて行き、追いつくと礼を言った。
「いいの、いいの。オレもそろそろ帰ろうかなって思ってたし」
「お釈迦様はどちらにお住まいなんですか?」
「ん~・・・・・・池の近く」
「池・・・・・・?」
きっと蓮の花がたくさん生えている池だろうかと
千栄理は思ったが、釈迦はそれ以上教える気が無いらしく、小さくなった飴を噛み砕くと、二本目に入った。そこで漸く自分が名乗っていないと気が付いた
千栄理は謝意を述べながら、自己紹介をすると釈迦は彼女の方を向いてにっと笑った。
「知ってる。ポセイドンちゃんの恋人だって有名だよ、
チェリちゃん」
「
チェリちゃん?」
「うん。
千栄理ちゃんだから、
チェリちゃん」
まさか釈迦にあだ名を付けられるとは思っていなかった
千栄理は再度不思議そうに瞬きをしたが、釈迦は「かわいいでしょ」と言ってぽふぽふと彼女の頭を軽く叩いた。態度はどこか素っ気ないが、決して自分を嫌っている訳ではなく、これが彼の素なのだろうと思うと、あだ名を付けられたのは彼と親しくなったような気がして、
千栄理は嬉しかった。
「ってか、
チェリちゃんはなんで木の上にいたの?」
「それは・・・・・・」
ヘルメスの靴を使ったはいいが、風に飛ばされてしまったと正直に言うと、釈迦は「そっかー、飛ばされちゃったかー」とだけ言い、笑うでもなく「今度から気をつけなよ?」と心配してくれた。会ってまだ間もないのに心配してくれる良い神様達によく会う日だなと
千栄理はまた嬉しく思った。
「ありがとうございます」
「ん」
それからポセイドンの城に着くまで釈迦と
千栄理は時々会話を挟みつつ歩き、着いた頃には夜の八時を回った頃だった。いつも配達に行く時はスマートフォンを置いたままにしていたせいで連絡もつかないまま、
千栄理はいつ帰ってくるのかと気を揉んでいたポセイドンだったが、彼女が帰って来たと報せを受けると、そんな素振りは微塵も見せぬまま、出迎えた。